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君の声が、まだ耳に残ってる

 春の終わりというのは、いつも中途半端だ。

 暑くも寒くもない。晴れているのに、どこか空気がぼんやりしている。僕はそういう季節が昔から苦手で、理由もなく落ち着かない気分になる。今日みたいに、図書館の窓際の席が全部埋まっていて、仕方なく奥の閲覧スペースの隅に座ることになった日は、特に。

 鞄からイヤホンを取り出そうとして、片方だけ見つからないことに気がついた。

「……また」

 呟いてから、恥ずかしくなって口を閉じた。最近こういうことが多い。鍵をどこに置いたか忘れる、傘を教室に忘れる、レポートの締め切りを一日間違える。友人の村田には「お前、ちょっとやばくない?」と笑われたけど、笑えない。就活が始まってから、頭の中がずっと靄がかかったみたいになっている。

 イヤホンを諦めて、開きかけの本に視線を落とした。

 そのとき、隣の席の椅子が引かれる音がした。

「あの」

 声をかけられた、と気づくのに少し時間がかかった。僕のことを呼んでいる人間がここにいるとは思っていなかったから。

 顔を上げると、立ったまま少し腰をかがめた人が僕の目を見ていた。

「それ、落としましたか」

 差し出されたのは、白いイヤホンだった。右側。

「あ」

「入口のところに落ちてて。たぶん、鞄から」

 声が低い。落ち着いた、でも無感動ではない声だった。受け取ろうとして、手が少し震えた。なんでだ、と自分でも思う。

「ありがとうございます」

「いえ」

 それだけ言って、彼は隣に座った。鞄を置く仕草が静かで、本を取り出す動作も無駄がなかった。僕はなんとなく、視線を本に戻せなかった。


 彼の名前を知ったのは、一週間後のことだった。

 図書館で顔を合わせるのは、あの日で終わりだと思っていた。広い大学の、広い図書館で、たまたま同じ席の近くにいただけの話だ。でも翌週、同じ奥の閲覧スペースに行ったら、同じ席に彼がいた。

 僕が入っていくと、ちらりとこちらを見て、また本に視線を戻した。

 それだけだった。挨拶もなかった。でもなんとなく、僕は自然に隣に座っていた。

 その日も、次の日も。

 気がつけばそれが習慣になっていて、ある日、図書館の返却口で並んでいたら後ろから「また来てる」と声をかけられた。振り返ると、彼が本を一冊持って立っていた。

「同じ学部じゃないですよね」

「文学部です」

「ああ、やっぱり。僕は経済です」

 そこで初めてちゃんと顔を合わせた気がした。

「城田です」と彼は言った。「城田 遼。三年」

「僕も三年。中村 彰吾」

 握手もしなかった。でも何かが変わった感じがした。


 城田は、話さない人間ではなかった。

 ただ、必要なことしか言わない人間だった。

 図書館で隣になると、たまに短い言葉を交わした。「その本、面白いですか」「まあまあ」「そうですか」みたいな、本当に短い会話。でも無視するわけでもなく、邪険にするわけでもなく、ちゃんとこちらを見て話す。

 僕はだんだんそれが好きになっていた。

 就活の話をしたのは、五月に入ってすぐのことだった。面接の練習シートを広げていたら、城田が横目で見て「就活?」と聞いてきた。

「そうです。全然うまくいかなくて」

「どこ受けてるんですか」

「出版とか、広告とか」

 城田は少し考えてから、「向いてそう」と言った。

「え」

「なんか、そういう感じがする」

 根拠があるのかないのかわからない言葉だった。でも僕は、なぜか少し、息がしやすくなった気がした。誰かに「向いてそう」と言われたのが久しぶりだったのかもしれない。親には「安定した仕事にしなさい」と言われ続けていたから。

「城田さんは?」

「就活、まだあまり動いてないです」

「え、三年ですよね」

「そうですね」

 それ以上は言わなかった。僕も聞かなかった。でも何かを抱えているような顔をしていた。少し眉が寄って、視線が手元の本に落ちていた。

 僕はそれを見て、何か言いたいと思った。でも何を言えばいいかわからなくて、結局「頑張りましょう」とだけ言った。ありきたりすぎる言葉だと思いながら。

 城田は少し笑った。口の端が微かに動く程度の笑い方だったけど、確かに笑っていた。

「そうですね」


 六月になった頃、城田が図書館に来なくなった。

 最初の一週間は、遅れて来るのかと思っていた。次の週は、用事があるのかと思った。その次の週、僕は初めて、城田のことをちゃんと心配していることに気がついた。

 連絡先を知らなかった。

 当たり前のことなのに、それが急にひどく不便に感じた。僕たちは名前しか知らなかった。学部と学年しか知らなかった。それだけの関係だったのに、いなくなると、なんでこんなに、と思う自分がいる。

 気を紛らわせようとして本を読んでも頭に入らなかった。就活のシートを書こうとしても言葉が出てこなかった。窓の外の梅雨の空が、水を含んだ雲で灰色になっていた。

 三週間目に、食堂で後ろから声をかけられた。

「中村さん」

 振り向いたら、城田が立っていた。

 少し痩せたように見えた。顔色は悪くないけど、どこか疲れた目をしていた。

「図書館、来てなかったので」

 僕がそう言うと、城田は少し黙った。

「ちょっと、いろいろあって」

「そうですか」

 聞くべきか、聞かないべきか。食堂のざわざわした音の中で、僕は少し迷った。

「……大丈夫ですか」

 城田はまた少し黙ってから、「どうでしょう」と言った。

 答えになっていない答えだった。でも城田らしい答えだとも思った。

「ご飯、一緒に食べますか」

 言ってから、余計なことを言ったかもしれないと思った。でも城田は少し考えて、「いいですか」と言った。

「もちろん」

 向かいに座った城田は、トレーを置いてから窓の外を見た。雨が降り始めていた。

「父親が倒れて」

 ぽつりと言った。

「実家に帰ってたんです。少しの間」

「それは……大変でしたね」

「もう落ち着きました。でもなんか、いろいろ考えちゃって」

 城田はそれ以上は言わなかった。でも何かを言おうとして、うまく言葉にできていない感じがした。僕はご飯を食べながら、ただそこにいた。

 しばらくして、城田が「就活、どうですか」と聞いてきた。

「一社、二次面接まで行きました」

「それはよかった」

「城田さんは」

「これから考えます」

「……本当に?」

 思ったより直接的な言い方になってしまった。城田は少し目を丸くして、それからまた口の端で笑った。今度は少し長く。

「中村さん、意外と遠慮しないですね」

「すみません」

「いや、嫌いじゃないです」

 その言葉が、思いのほか長く胸の中に残った。


 雨が上がった頃、食堂を出た。

 並んで歩いていると、城田が「また図書館、行っていいですか」と言った。

「もちろん。というか、城田さんの席じゃないですか、あそこ」

「中村さんも来てたじゃないですか」

「先に来てたのは城田さんです」

「どっちでもいいか」

 どっちでもよくない、と思ったけど、言わなかった。

 廊下の角で「じゃあ」と城田が手を上げた。僕とは別の方向に行くらしかった。

「また来週」

 振り返らずに歩いていく城田の背中を見ながら、「来週」という言葉の重さを考えていた。来週があることを、当たり前みたいに言っていた。

 雨上がりの廊下は、窓から光が差し込んで、床が白く光っていた。

 僕はしばらくそこに立ったまま、城田が角を曲がって見えなくなるのを見ていた。

 何が変わったのか、うまく言えない。でも、何かが変わった気がした。

 また来週、と。

 そう言ったのが城田の方からだったという事実が、ひどく静かに、でも確かに、胸の中に落ちた。

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