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お姉ちゃんの傘は、いつも少しだけ大きい

傘を忘れたことに気づいたのは、改札を出た瞬間だった。

空はどんよりと曇っている。気象アプリを開いてみれば、午後から「強雨」の文字が律儀に並んでいた。

「……なんで朝のうちに確認しないんだ、僕は」

誰に言うわけでもなく、呟いた。

駅の軒下に立って空を見上げる。大学から実家まで、歩けば十五分。走れば十分。でも今日に限って革靴だ。就活の説明会帰りで、スーツまで着ている。

コンビニで傘を買えばいい。それだけの話だ。それだけの話なのに、なぜか足が動かなかった。

三月の雨は冷たい。

ぼんやりそんなことを思っていると、着信が鳴った。画面には「姉・彩乃」とある。

「もしもし」

「あんた今どこ? 駅前?」

姉の声はいつも少しだけ高い。ちょっと鼻にかかって、早口で、聞いてるこっちが急かされるような感じがする。

「そうだけど。なんで知ってるの」

「なんでって、LINE見たら実家帰るって書いてあったじゃん。傘忘れたでしょ、どうせ」

なんで分かるんだろう、と思った。思ったけど、言わなかった。

「……持ってきてくれるの?」

「五分で行くから待ってて」

それだけ言って、電話が切れた。

彩乃姉さんは二つ年上で、今年二十四歳になる。

地元の会社に就職して、もう二年目だ。実家から通っているから、ときどきこうして鉢合わせる。

五分後、自転車に乗った姉が現れた。ポンチョの裾をはためかせて、慣れた手つきで自転車を止める。前かごには折り畳み傘が一本。うちの傘じゃなくて、姉の傘だ。大きくて、黒い、ちゃんとした大人の傘。

「はい」

差し出された傘を受け取る。

「姉さんは?」

「ポンチョあるから平気。あんたの革靴、ビショビショになったら悲惨じゃん」

さらっと言って、姉はもう自転車を押し始めている。見送るような間もなかった。

僕は少しの間、その傘を見つめた。黒い生地に、細い骨。広げてみると、思ったより大きくて、両側に余裕がある。

昔からそうだ。

姉は僕に傘を貸すとき、必ず自分より大きいやつを選ぶ。

雨の中を歩きながら、思い出してしまった。

小学四年生のとき、似たようなことがあった。遠足の前日、僕は「雨は降らない」と根拠のない自信を持って傘を置いてきた。当然、帰りにどしゃ降りになった。

バス停で途方に暮れていたら、姉が来た。同じバスに乗っていたのに、僕が最後に降りる停留所まで一緒に乗ってきたのだ。

「なんで降りなかったの」

「あんたが傘持ってないの、見えてたから」

そのとき差し出されたのも、大きな傘だった。

大人になった今でも、基本的に何も変わっていないのが少し恥ずかしい。いや、「恥ずかしい」というより、なんというか——うまく言葉にならない感情が、胸のあたりにある。

感謝なのか、申し訳なさなのか。それとも、もっと別の何かなのか。

実家に帰ると、母がリビングでテレビを見ていた。

「あら、スーツ。就活?」

「説明会。彩乃姉さんに傘貸してもらった」

「あの子、またそういうことするんだから」

母が苦笑するのを横目に、コートを脱ぐ。姉の部屋の前を通りかかったとき、中から声が聞こえた。

「……そう、だから断ったんだけど。いや、断ったよ。でも向こうが……」

仕事の電話だろうか。声に、少しだけ疲れが混じっていた。

僕は黙って自分の部屋に向かった。

着替えながら、ぼんやり考える。姉は「平気」とか「大丈夫」とかよく言うけど、実際どうなんだろう。社会人二年目って、どういう感じなんだろう。就活で四苦八苦している僕には、まだ全然見えてこない景色だ。

傘を返しに行こうと思って、立ち上がった。

姉の部屋のドアをノックすると、少し間があってから「はい」と返ってきた。

「傘、ありがとう。返す」

ドアを薄く開けると、姉はデスクの前に座っていた。スマホを置いて、こっちを向く。

「あー、よかった濡れなかった?」

「濡れなかった。でもこの傘、大きすぎじゃない?」

「え、そう?」

「いつも姉さんの傘って大きい気がする」

姉は少し首を傾けてから、ふ、と笑った。

「そっかな。気にしたことなかった」

気にしたことなかったのか、と思った。こっちはずっと気にしていたのに。

「……姉さん、仕事きつい?」

自分でも驚いた。そんなことを言うつもりじゃなかったのに、口から出ていた。

姉はちょっと目を見開いて、それから「なにそれ急に」と笑った。でも笑い方が、いつもより一テンポ遅かった。

「まあ、そこそこ」

「そこそこ……」

「でも平気。あんたこそ、就活どう? ちゃんとご飯食べてる?」

すぐに話が僕の方に来た。そういう人なのだ、この人は。

聞かれたら答えてしまう。

「……まあ、食べてる。でも正直、自分が何をしたいのかよく分からなくて」

「分かんなくて当然じゃない、まだ」

「姉さんは就活のとき、どうだった?」

少し、間があった。

「私も全然分かんなかったよ。なんとなく近くで働きたくて、なんとなくここ受けて、なんとなく受かった感じ」

「なんとなく、ね」

「でもね」

姉が続けた。

「なんとなくで決めたくせに、やってみると『これでよかったかも』って思う瞬間、ちゃんとくるから」

僕は黙って、その言葉を聞いた。

説教じゃない。経験でもない。ただの、姉の話だ。なのに、なぜかしんと胸に落ちた。

「……そっか」

「そっか、って。なんか気が抜けた返事だな」

「いや、そっかって思ったんだもん」

姉がまた笑う。今度はちゃんと、いつもの速さで。

夜ご飯は親子四人で食べた。父が仕事の話をして、母が近所の話をして、姉が適当に相槌を打っていた。僕は姉の横で、黙って味噌汁を飲んでいた。

食後、姉が台所で皿を洗っていると、僕は隣に立った。

「手伝う」

「え、いい。すぐ終わるし」

「いいから」

無理やり布巾を受け取って、洗い終わった皿を拭き始めた。姉がちょっと驚いた顔で僕を見る。

「なに、急に」

「別に。やりたかっただけ」

姉はしばらく何か言いたそうにしていたけど、結局黙って食器を洗い続けた。

水の音と、窓の外の雨音だけがしばらく続く。

こんなふうに隣に立ったのは、いつぶりだろう。

子供のころは毎日こうしていたのに、いつのまにか姉は大人になって、僕は受験とかバイトとかで忙しくなって、なんとなく気づいたら距離ができていた。

それが今日、少しだけ縮まった気がする。

気がするだけかもしれない。でも「気がする」って、案外大事なんじゃないかと最近思う。

「ねえ」

姉が言った。

「今日、傘持って来てよかった」

「……うん」

それだけだった。でもなんだか、それ以上のことが言いたかったわけじゃないのも、なんとなく分かった。

皿を全部拭き終えて、棚に戻す。

姉はもう洗い物を終えていて、タオルで手を拭きながら冷蔵庫を開けていた。

「プリン食べる?」

「食べる」

「就活生がプリンとか」

「関係ない」

二人分のプリンを持って、姉はリビングへ歩いていく。

僕はその背中を見ながら、ふと思った。

いつか就活が終わって、社会人になって、もしかしたら家を出る日もくるかもしれない。そのとき、こういう夜のことを覚えているだろうか。

雨の音と、洗い物の音と、姉が「プリン食べる?」って聞いてきた、この何でもない夜のことを。

「早く来な、テレビ始まるよ」

リビングから声が飛んでくる。

僕は少しだけ笑って、その後に続いた。

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