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君の声が、まだ耳に残っている

春の終わりというのは、妙に気が抜ける。

桜がとっくに散って、五月の日差しがじりじりと窓から差し込んできても、僕はまだどこかぼんやりしていた。新学期が始まって一ヶ月。クラスの顔ぶれも、席の位置も、だいたい把握できてきた頃になって、ようやく自分がこの教室に慣れてきたような気がしていた。

慣れてきた、と思っていた。

橘さんに話しかけるまでは。


「ねえ、消しゴム貸してもらえる?」

放課後の教室。ほとんどの生徒が帰ったあとの、やけに静かな空間で、彼女は当たり前みたいに僕に声をかけてきた。

橘さなか。隣の席の子。

話したことは、それまで一度もなかった。

「あ、うん」

僕は反射的にペンケースを漁って、消しゴムを差し出した。なんで放課後まで残って消しゴムを借りるんだろう、という疑問は、彼女の「ありがとー」という声に一瞬で消えた。

声が、よかった。

なんというか、ちょうどいい温度、みたいな声だった。熱すぎず、冷たすぎず。廊下の空気と混じっても消えない、そういう声。

僕はそれだけで少し動揺して、シャーペンを転がしてしまった。

「不器用だね」

橘さんが笑いながら言った。

「そういうわけじゃ……」

「よく転がすよね、でも」

「見てたの」

「隣だから見える」

それだけのことだった。本当にそれだけのやりとりだったのに、自転車で家まで帰る間も、夕飯を食べている間も、その言葉がぐるぐるしていた。

隣だから見える。

そんなこと、考えたことなかった。彼女が僕の隣にいて、僕のことが視界に入っていたなんて。


それから、なぜか話すようになった。

なぜか、というのは正確ではないかもしれない。次の日の朝、席に着いたとき、橘さんが「消しゴム、ありがと」と言って、僕が「うん」と言って、それだけで何かが変わった気がした。

ちいさな扉みたいなものが、開いた感じ。

彼女はよくしゃべる子だった。授業中はわりと静かなのに、先生がいなくなった瞬間、後ろの友達に話しかけたり、窓の外を見てぼそっと独り言を言ったりした。

「あ、ツバメだ」

「え?」

「ツバメ、もう来てるんだ」

窓の外を見ると、確かに、電線に小さな鳥のシルエットがあった。

「詳しいの?」

「詳しくはない。でも、見つけると得した気分になる」

そういう感覚、わかるような気がした。でも僕は「そうなんだ」としか言えなくて、それがなんとなく悔しかった。


六月になって、梅雨が来た。

傘を忘れた日に限って、土砂降りになる。これは法則だと思う。

「…やばい」

放課後、昇降口の前で空を見上げながら呟いた僕のとなりに、橘さんが来た。

「傘、ないの?」

「うん」

「バス?」

「自転車」

「それはキツいね」

彼女は自分の傘を広げながら、なぜか動かなかった。

「同じ方向だっけ」

「え、あ……たぶん」

「じゃあ途中まで」

「いや、でも」

「濡れたいの?」

濡れたくなかった。だから、隣に入れてもらった。

一本の傘に二人で入るのは、思ったより距離が近かった。雨音がうるさくて、あまりしゃべれなかった。橘さんは特に気にした様子もなく、水たまりを避けながら歩いた。

僕は、なんとなく傘の端を持つべきなのか、そのままでいるべきなのか、ずっと迷っていた。

「持とうか」と言いかけて、やめた。なんか、わざとらしい気がして。

結局何も言えないまま、橘さんの家の近くの角まで来た。

「ここで大丈夫?」と彼女が言った。

「うん、ありがとう」

「じゃあ走って帰りな」

「走ったって濡れるよ」

「濡れてもすぐ着くじゃん」

そういうものか、と思った。

「また傘忘れたら声かけて」

「そんな何回も忘れない」

「でも忘れる気がする」

彼女は笑って、そのまま歩いていった。傘が雨の中で小さくなっていくのを、僕は意味もなく見送っていた。

走って帰った。言われた通りに。びしょ濡れになった。

なんか、悔しくて、でも笑えた。


翌日、橘さんは何事もなかったように席に座っていた。

「傘、ちゃんと持ってきた?」

最初に言われた。

「持ってきた」

「えらい」

子どもをほめるみたいな言い方だった。腹が立つわけじゃないのが、余計に困った。

僕たちはそれからも、たまに話した。たまに、というのがポイントで、毎日話すわけでも、LINEを交換するわけでもなかった。授業が終わったときとか、誰かが面白いことをしたときとか、なんとなく目が合ったときとか、そういうときだけ。

でもその「たまに」が、僕には十分すぎるくらいだった。

いや、十分だったのかはわからない。

むしろ、足りなかった、のかもしれない。


ある昼休み、橘さんが友達と話しているのが見えた。笑って、身振り手振りを交えて、何かを話している。いつもの声で。

僕の知らない話を、誰かにしている。

それが当たり前のことなのに、なぜかそのとき、ひどく遠くに感じた。

隣の席なのに。

毎日顔を見ているのに。

僕は彼女のことを何も知らない。好きな食べ物も、放課後に何をしているかも、あのツバメの話をどこで覚えたのかも。

聞けばいいだけなのに、聞けない。それが、僕の欠点だった。ずっとそうだ。大事なことほど、言葉が出てこない。


七月の初め、席替えがあった。

橘さんは、教室の逆側になった。

発表があった瞬間、何かがすとんと落ちた感じがした。落ちた、のか、なくなった、のかわからない。とにかく、何かが終わった気がした。

席を移動するとき、橘さんは特に何も言わなかった。新しい席に向かって、さっさと荷物を持っていった。

当たり前だ。席替えは席替えだ。

でも昼休みに、わざわざ前の席の方に来て、

「席、遠くなったね」

と言った。

「うん」

「なんか変な感じ」

「そう?」

「隣にいると思ってたから」

思ってた。

過去形だった。

僕は何か言おうとして、うまく言えなかった。

「また傘忘れたら声かけなよ」

橘さんはそれだけ言って、友達に呼ばれて行ってしまった。


帰り道、空はきれいに晴れていた。

自転車を漕ぎながら、今日の空気とか、影の長さとか、どうでもいいことばかり考えていた。

また傘忘れたら、と彼女は言った。

それは、また話せる、ということなのか。

それとも、ただの挨拶みたいなものなのか。

わからない。

でも、その「わからない」が、なぜか嫌じゃなかった。

梅雨は終わったけれど、夏はこれからだ。

僕はまだ、彼女に好きな食べ物を聞いていない。

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