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私が殺した令嬢は、まだ死んでいない

婚約破棄の宣告は、薔薇の香りとともにやってきた。

王太子殿下のお声はよく通る。謁見の間に集まった貴族たちの視線が、いっせいに私へと向いた。百を超える目が、私の白いドレスを、整えた髪を、強ばった頬を、品定めするように動く。

「ルチア・フォン・エスタ侯爵令嬢。貴女に宣告する。本日をもって、我々の婚約を破棄する」

私はその言葉を、どこか遠い場所で聞いていた。

殿下の隣に立つアデーレ嬢が、勝ち誇ったように微笑んでいる。薄桃色の頬、潤んだ金の瞳。彼女の表情は「悲劇のヒロイン」を完璧に演じていた。私が彼女を痛めつけ、虐げてきた加害者として。

問題は一つだけあった。

私には、アデーレ嬢を傷つけた記憶が、一切ない。

三ヶ月前のことを思い出す。

私は書斎で、一冊の本を読んでいた。タイトルは『断罪の花嫁』——王立学院を舞台にした恋愛小説で、侯爵令嬢の悪役が王太子の婚約者の座を追われるという、ありふれた筋書きだった。

読み終えてから三秒後、私は気がついた。

その悪役の名前が「ルチア・フォン・エスタ」だということに。

そして私は、その本の世界の中にいた。

前世の記憶は曖昧だが、確かに存在する。日本という国で生まれ、二十数年を生きた女の記憶が、十六歳の侯爵令嬢の身体の奥に宿っていた。私はいわゆる「転生者」だった——それも、断罪されて処刑されると決まっている悪役に。

だから私は変わろうとした。

ヒロインのアデーレ嬢に近づかない。傷つけない。噂を流さない。悪役らしい行動を一切やめて、ひたすら穏やかに、静かに過ごした。三ヶ月間、息を潜めるようにして生きた。

それなのに。

「証拠をお持ちか」

私の口から言葉が出たとき、謁見の間がざわめいた。

自分でも驚いた。震えていると思っていた身体は、意外なほど静かだった。背筋が伸びている。声が通っている。侯爵令嬢の身体は、修羅場をくぐり抜けるための教育を受けていた。

「何?」と殿下が眉を吊り上げた。「令嬢、今の状況がわかっているのか」

「わかっております」私は一歩、前に出た。「だからこそ伺います。アデーレ嬢を傷つけたという証拠を、殿下はお持ちか、と」

アデーレ嬢の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。

悲しみの仮面の奥で、何かが揺れた。驚き、ではない。別の何かだ——と思ったとき、私はそれを見なかったことにした。余裕がなかった。

それが後で、取り返しのつかない見落としになるとは知らずに。

「証拠なら山ほどある」殿下が指を鳴らした。「学院の生徒たちが証言している。廊下での嫌がらせ、食事への細工、手紙の偽造——」

「すべて三ヶ月以上前の話です」

今度こそ、謁見の間が静まり返った。

「三ヶ月前から、私はアデーレ嬢と接触していない。それを証明できる証人が、少なくとも十二人おります」

準備していた。こうなることを、最初から想定して動いていた。信頼できる使用人たち、顔見知りの教師、馴染みの書店主——転生者の知識と侯爵令嬢の人脈を組み合わせて、三ヶ月間、私は自分のアリバイを丁寧に積み上げてきた。

殿下の顔から血の気が引くのが見えた。

「では、誰が」と呟いた声は、私にしか届かなかったかもしれない。

その瞬間だった。

アデーレ嬢が、声を上げて泣き崩れた。

彼女の泣き声は美しかった。

鈴を転がすような声が、嗚咽に変わる。細い肩が震え、透き通るような白い手で顔を覆う。見ている者すべての保護欲を刺激する、完璧な「か弱いヒロイン」の姿だった。

「もう……もうやめて」彼女は泣きながら言った。「ルチア様を、これ以上責めないで……私が悪いんです、私が余計なことをしたから……」

謁見の間の空気が動いた。

貴族たちの同情が、アデーレ嬢へと流れていくのを感じた。「なんと健気な」「あの令嬢は傷つけた側だというのに」という囁きが聞こえた。構造として完璧だ、と私は思った。彼女が庇う素振りを見せることで、私の「悪役性」はむしろ際立つ。

それでも、私は彼女の顔から目を離せなかった。

涙に濡れた頬。震える睫毛。ガラスのような金の瞳——

その目が、一瞬だけ、私を見た。

泣きながら、笑っていた。

いや、違う。笑っているのではない。もっと複雑な、もっと深い何かだった。懇願するような、謝罪するような、それでいて諦めたような——まるで「気づいてほしい」と言っているような目だった。

私は固まった。

そして思い出した。

小説の中でアデーレ嬢は、孤児院の出身だった。後ろ盾がない。権力がない。ただ「聖女の素質」だけを持って王宮に引き取られ、王太子に見出された、その一点だけが彼女の命綱だった。

もし王太子に捨てられたら。

もし「ヒロイン」の役割を失ったら。

彼女には何も残らない。

謁見は終わった。

正式な婚約破棄には至らなかった。私の証拠提出によって審議が持ち越され、王都の法廷が事実関係を調査することになった。勝ったわけでも負けたわけでもない、宙ぶらりんの決着だった。

廊下を歩きながら、私は考えた。

私が転生した小説の中では、このあとどうなるのか。確か——悪役令嬢が断罪されたのち、ヒロインと王太子は幸せに結ばれる。平和なエンドだ。

でも今、その筋書きは大きくずれている。

私は断罪されていない。アデーレ嬢の「涙の懇願」も、どこか台本通りではなかった。そして何より——あの目。

角を曲がったところで、声をかけられた。

「ルチア様」

振り返ると、アデーレ嬢が立っていた。

侍女も護衛もいない。ひとりで。

先ほどの涙が嘘のような、静かな表情で、彼女は私を見ていた。

「三ヶ月間、貴女が変わろうとしていたことは、知っていました」

私は息を呑んだ。

「でも止められなかった」彼女は続けた。声が揺れていた。「この話には、もう一人の書き手がいるから」

「……どういう意味」

アデーレ嬢は答えなかった。

ただ、袖をまくった。

白い腕の内側に、細く、黒い文字が刻まれていた。まるで刺青のように、まるで活版印刷のように——私が三ヶ月前に読んだ小説の、一節だった。

私の名前が、そこにあった。

「貴女はこの物語の悪役だと思っている」アデーレ嬢は袖を戻した。「でも私は、ずっと前から知っていた。本当の悪役は——」

廊下の向こうで、足音がした。

彼女は口を閉じた。

そして微笑んだ。またあの、泣きながら笑うような顔で。

「次に会うとき、貴女はまだルチアでいられますか」

足音が近づいてくる。

アデーレ嬢は踵を返して、音もなく消えた。

私は腕の内側を見た。

何もない。白い肌だけがある。

でも私には確かに見えた気がした——うっすらと、インクが滲むように、私自身の名前が、皮膚の奥で揺らめくのを。

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