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召喚された俺と、魔法が使えない魔女のこと


 気づいたら、見知らぬ部屋の天井を見上げていた。

 石造りの天井。どこかひんやりとした空気。そして、鼻をつく蝋燭の匂い。

 ゆっくりと上体を起こすと、頭の奥がじんと痛んだ。

「あ、起きた」

 声がした。

 振り返ると、部屋の隅に女の子が立っていた。十七、八くらいだろうか。くすんだ金色の髪を適当にまとめて、少し大きすぎる黒いローブを着ている。その子はなぜか、どこかバツが悪そうに視線を逸らした。

「えっと」と俺は言った。「ここ、どこ?」

「……魔法陣の部屋」

「それはわかる。国とか、世界とか」

 彼女は少し黙ってから、ぼそりと言った。

「リュティア王国。あなたの世界じゃない場所」

 俺、高見沢蓮二、十九歳。大学一年生。昨日まで試験勉強に追われていたはずが、気づけば異世界にいた。

 驚くべきことに、俺はそこまで驚いていなかった。

 なんとなく、こういうことが起きるような気がしていた。根拠は何もないけれど。


「召喚したのは、あなた?」

 俺が聞くと、彼女はまた視線を逸らした。

「……そう」

「なんで?」

「英雄を呼ぶつもりだった。勇者とか、そういう人を」

「俺、普通の大学生なんだけど」

「わかってる」

 彼女の声が、少し小さくなった。

「失敗した。術式の計算を間違えた。本当は強くて頼りになる人を呼ぶはずだったのに、なぜかあなたが来た」

 それはつまり、俺は間違いで召喚された、ということらしい。

 普通なら傷つくところだと思う。でも不思議と、怒りは湧いてこなかった。彼女があまりにも申し訳なさそうな顔をしていたから、という理由だけじゃない。どこか、この子自身がぼろぼろに見えたからだ。

 ローブの袖が、少しすり切れている。目の下に薄い隈がある。部屋の片隅に積み上げられた本の山は、何度もページをめくったのか、端が丸くなっていた。

「名前は?」

「……エリス。エリス・カドラン」

「俺は高見沢蓮二。レンジでいい」

 エリスは少し首を傾けた。

「レン、ジ」

「そう。よろしく」

 彼女はまた視線を落とした。返事は、なかった。


 エリスは魔女の卵だった。

 この世界では、魔法使いは家系で決まることが多い。カドラン家は代々魔女を輩出してきた名家で、エリスもまた幼い頃から魔法使いとして育てられたらしい。

 問題は、エリスがほとんど魔法を使えないことだった。

 それを俺が知ったのは、召喚の翌朝のことだ。

 朝食を用意しようとしたエリスが、火をおこす魔法を使おうとして、三回失敗した。結局、俺が普通のマッチで火をつけた。マッチは荷物の中に入っていた。なぜ荷物ごと召喚されたのかは、よくわからない。

「……ありがとう」

 エリスは小さく言って、スープを温め始めた。

「魔法、得意じゃないの?」

 聞いてから、少し後悔した。でもエリスは逃げなかった。

「苦手。というより、ほとんどできない。小さい術なら何とかなるけど、大きいものは全部失敗する」

「さっきの召喚は、大きい術?」

「王国史上でも稀なくらいの、大規模な術式」

 それで俺が来た。

 なんというか、すごい失敗だな、と思った。でも同時に、それだけ必死だったんだということも伝わってきた。

「なんで、そこまでして英雄を呼ぼうとしたの?」

 エリスは、しばらく黙ってスープをかき混ぜていた。

「王都の北に、魔物の群れが現れた。このまま放っておけば、三ヶ月以内に村が三つ飲み込まれる。騎士団は別の戦線で手が離せない。誰かが何とかしなければいけなかった」

「それをエリスが?」

「私しかいなかった。カドラン家の当主は父だけど、病気で動けない。兄たちは外に出て連絡が取れない。だから私が、なんとかしなければと思って」

 スープの湯気が、静かに立ち上っていた。

「それで、失敗した」

 エリスの声は、淡々としていた。淡々としているのに、なぜかその言葉が胸に刺さった。

 俺は何も言えなかった。言えるわけがない。英雄じゃないし、剣も持ったことがない。魔法なんてもちろん使えない。役に立てる気が、まったくしなかった。


 三日が経った。

 俺はエリスの家に居候することになった。といっても、広い屋敷に二人だけ。使用人もいない。エリスが一人で全部やっている。

 俺はできる範囲で手伝った。薪を割ったり、買い出しに行ったり、重い本を棚に戻したり。エリスは最初、「いい」と断ったけれど、三度断られたら次は断らない、と決めてやり続けた。

 四日目から、断られなくなった。

 エリスは不思議な子だった。

 無口で、笑わなくて、視線を合わせることが少ない。でも本を読んでいるときだけ、顔が変わる。眉間のしわが消えて、目が少し細くなる。楽しそうというより、満ち足りているみたいな顔。

 俺はその顔を見るのが、なんとなく好きになっていた。

「それ、何の本?」

 ある夜、暖炉の前で読んでいたエリスに聞いた。

「魔法の理論書。百年前に書かれたもの」

「難しそう」

「難しい」

「面白い?」

 エリスは少し考えてから、こう言った。

「わからない部分がある。それを調べている」

「なんのために?」

「私が術式を間違えたのは、理論の理解が足りなかったからだと思う。同じ失敗をしないために」

 その言葉が、俺の予想と少しずれていた。

 てっきり「英雄を召喚し直すため」と言うと思っていたから。

「英雄を呼び直すの?」と俺は聞いた。

「それもある」エリスは本から目を離さずに言った。「でも今は、なぜ失敗したかを知りたい」

「俺が来たのは失敗なのに?」

 エリスはそこで初めて、俺の方を見た。

「失敗は失敗。でも原因を知らないままなのは、もっと嫌い」

 なぜか、それがとても彼女らしいと思った。


 七日目の夕方、俺はとんでもないことに気づいた。

 エリスの部屋の前を通りかかったとき、小さな声が聞こえた。覗くつもりはなかった。でも扉が少し開いていて、声が漏れていた。

「……また、だめだった」

 ため息みたいな呟き。

 そっと中を見ると、エリスが魔法陣の前に座っていた。手の中に小さな光が生まれかけて、すぐに消えた。生まれて、消えた。何度も、何度も。

 俺は声をかけられなかった。

 かけるべきじゃないと思った。あれは、誰にも見せるつもりのない時間だった。

 でも、廊下を離れながら、心のどこかが締め付けられた。

 あの子は毎晩、ああしていたのかもしれない。誰もいない部屋で、うまくいかない魔法と向き合って、一人で諦めずに続けて。

 俺は自分の部屋に戻ってから、しばらく天井を見つめた。

 英雄じゃない。剣も魔法も使えない。でも。

 でも、何かできることがあるんじゃないか、と思い始めていた。理由はうまく言葉にできなかった。ただ、あの小さな光が消えていく瞬間が、頭から離れなかった。


 翌朝、食事のあとで俺は言った。

「俺も手伝っていい? 魔物の件」

 エリスは箸……じゃなくてスプーンを止めた。

「あなたは一般人でしょう」

「そう」

「魔法も使えない」

「使えない」

「剣も」

「持ったことない」

 しばらく沈黙があった。

「じゃあ、何ができるの」

 俺は少し考えた。

「わからない。でも、俺の世界には魔法がない。だから魔法以外の方法を考えるのは、俺の方が得意かもしれない」

 エリスは俺を見た。まっすぐに、今までで一番長く。

「……いつもそんなふうに、根拠のないことを言うの」

「大体そう」

「なんで」

「言わないと、始まらないから」

 エリスは視線を窓の外に向けた。朝の光が、くすんだ金色の髪に当たって、少し明るく見えた。

「……考える」

 それだけ言って、彼女は立ち上がって食器を片付け始めた。

 返事としては、かなり弱い。でも俺は、何かが変わった気がした。

 昨日まで、エリスと俺の間には見えない壁があった。俺は間違いで来た人間で、エリスは失敗した術者で、お互いがお互いに少し遠慮していた。

 でも今朝は、その壁が少しだけ薄くなった気がした。

 気のせいかもしれない。

 でも気のせいじゃないかもしれない、と俺は思った。


 夜、自室のベッドの上で、俺は今日のことを振り返った。

 異世界に来て、一週間が経つ。帰り方はまだわからない。エリスもまだ調べている途中だと言っていた。

 焦りが全くないわけじゃない。大学の講義は? 友達は? 家族は?

 でも、今一番気になっていることは正直、別のことだった。

 エリスが「考える」と言ったあとの、あの一秒。

 彼女が窓の外を見た、あの横顔。

 何を考えていたんだろう、とどうしても思ってしまう。

 石造りの天井を見上げながら、俺は目を閉じた。

 この世界に来たのは間違いだった。でも今のところ、この間違いが、そんなに嫌いじゃない。

 明日、エリスはどんな顔をしているだろう。

 そう思ったら、なんとなく、眠れそうな気がした。

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