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「好きって言えない理由が、百個ある」


 今日も、また見てしまった。

 授業中に窓の外を眺めるふりをして、視線だけこっそり横にずらす。いつからこんな技術を身につけたんだろうと、自分でも呆れてしまう。

 斜め前の席に座る石川 律が、シャープペンシルを指でくるくると回しながら黒板を見つめている。なんでもない仕草なのに、なぜか目が離せない。

 私の名前は、桐嶋 明日香。高校二年生。ごく普通の、どこにでもいる女子高生——のはずだった。三週間前までは。


 きっかけなんて、あほらしいくらい些細なことだった。

 放課後の廊下で、私が落とした消しゴムを拾ってくれただけ。

「はい」

 それだけ。

 それだけなのに、石川くんの声が頭の中でリプレイされ続けて、その夜まともに眠れなかった。

 翌朝鏡を見たら、目の下にうっすらクマができていた。

「なにそれ、顔色わる」

 と言ったのは、幼なじみの沢田 真帆だった。彼女は私の異変に、いつも気づいてしまう。

「睡眠不足」

「嘘だ。石川くんのこと考えてたでしょ」

 どうしてわかるの、と思いながらも「そんなんじゃない」と返した。真帆はにやっと笑って、「そんなんじゃないって言う人が一番そんなんだよ」と言った。

 正論すぎて、むかついた。


 問題は、私が石川くんのことを好きかもしれないということ——ではなく、石川くんが「近づきにくいタイプ」だということにある。

 彼はクラスで浮いているわけじゃない。ちゃんとしゃべるし、笑うし、体育の時間には普通にはしゃいでいる。でも、どこかひとつ、薄いガラスのようなものが彼の周りにある気がした。

 話しかけようとすると、なんとなく怖くなる。

 怖いというより——うまく言えないけれど——傷つけてしまいそうな感じ、とでも言えばいいのか。こっちが的外れなことを言ったとき、じっと黙って「ふうん」とだけ返す顔を想像すると、胸がしめつけられる。

 だから三週間、私はひたすら横目で見ることしかできなかった。


 転機は、意外な形でやってきた。

 月曜日の放課後、図書室で調べものをしていたとき。

 いつもは人が少ない図書室が、その日は文化祭の準備で使う資料を探しにくるクラスメートがちらほらいた。私は奥の棚のあたりで地図帳と格闘していた。郷土史の課題で、昔の地名が必要だったのだけど、棚の一番上の段にある本が、背伸びしても届かない。

 ジャンプしてみた。

 当然、届かなかった。

 もう一回ジャンプした。

 届かなかった。

 三回目のジャンプのあと、ふと気配がして振り向くと、石川くんが棚の横に立っていた。

 いつから見ていたんだろう。

「……何が必要?」

 彼の声は静かで、でも今日は怖くなかった。

「え、あの、あそこの——」

 私が指さした本に、石川くんがすっと手を伸ばした。

 背が高いから、あっという間だった。

「これ?」

「……はい」

「はい、じゃなくて」

 石川くんが、微妙に困ったような顔をした。

「ここ、先生いないから敬語じゃなくていいよ」

 その表情が予想外すぎて、私はしばらく固まってしまった。なんというか——完璧な無表情を想像していたのに、困った顔って意外と人間っぽい。

「……ありがとう」

「うん」

 彼は短く答えて、自分の用事があるのか棚の前に立ってパラパラと本を確認し始めた。

 そのとき私は気づいてしまった。

 石川くんの手が、本のページをめくるたびに、少し迷っていることを。読むか読まないか、ではなく——なにか別のことで。


 帰り道、真帆に話したら「えっ、なにそれ進展じゃん!」と盛大にはしゃいだ。

「進展じゃないよ。本を取ってもらっただけ」

「でも話した! 三週間ぶりに!」

「消しゴム拾ってもらったときも話してる」

「『はい』と『ありがとう』は会話じゃない」

 それも正論だった。

 真帆は歩きながら、「石川くんってさ、」と続けた。

「なんか、笑ったとこ見たことないんだよね。私は」

「……笑うよ。体育のときとか」

「え、見てるじゃん」

 しまった、と思ったときにはもう遅かった。真帆が「わかった! もう全部わかった!」と騒ぎ出して、私は夕暮れの住宅街で頭を抱えた。


 翌日。

 なんとなく意識してしまって、ホームルームの前に石川くんの席の近くを通ったら、彼が机の上で何かを読んでいた。

 文庫本だった。

 背表紙がこっちに見えなかったけれど、めくっているページが半ばを超えていて、栞のかわりに小さなレシートが挟んであった。

 なんの本だろう、と思った。

 そしてすぐに、私は少し恥ずかしくなった。そんなところまで見ている自分が。

 でも次の瞬間、石川くんが顔を上げた。

 目が合った。

 完全に、がっつり、目が合った。

 逃げるタイミングを完全に失って、私がそのまま固まっていたら、石川くんは視線をまた本に落として——でも一瞬だけ、口元が動いた。

 笑ったのか、笑ってないのか、わからないくらいの小さな動き。

 でも確かに、なにかが動いた。

 私は急いで自分の席に戻って、机に突っ伏した。

 耳が熱かった。心臓が、うるさかった。

 好きって言えない理由が百個あっても、こうして一個ずつ、言い訳が崩れていくみたいだった。


 放課後、図書室の前を通りかかったとき。

 昨日と同じ棚の前に、石川くんがいた。

 視線に気づいたのか、彼がこっちを向いた。

「昨日の課題、解決した?」

 声をかけてきたのは、彼のほうだった。

 私はしばらく言葉が出なくて、でもなんとか「した」と返した。

「そっか」

 石川くんは特に感情を見せるわけでもなく、また本に視線を戻した。

 それだけなのに——それだけなのに、私の足が、昨日よりほんの少しだけ、彼の方向に近づいていた。

 三週間前とは、なにかが違う。

 距離が、動いた気がした。

 ほんとうに少し。ほんとうにわずか。

 でも確かに、動いた。


 その夜、布団の中で私はスマホを持ったまま天井を見つめた。

 真帆にLINEしようか迷って、やめた。

 なんて送ればいいかわからなかった。

「声かけてきた」だけじゃ伝わらない。あの「そっか」の意味も、口元が動いた瞬間の意味も、自分でもまだわかっていない。

 でも——

 ひとつだけ確かなことは、明日の朝が、三週間前よりちょっとだけ楽しみだということだった。

 朝、学校に行けば、また斜め前の席がある。

 それだけで、なんでこんなに心拍数が上がるんだろう。

 自分でも意味がわからなくて、でも悪い気はしなくて、私はそっとスマホを枕元に置いた。

 春の夜風が、カーテンをゆらした。

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