目が覚めると、隣に奴の体温があった。
それだけで、また今日も始まると思った。
俺——川原悠斗、二十六歳——は、寝返りを打つふりをして朝の光から目を逸らした。薄いカーテン越しに差し込む白い光が、畳んだままの奴のスーツを照らしている。昨夜も遅かったんだ、と俺は思う。気づいていながら、何も言わなかった。
「起きてる?」
背中越しに声がした。
「……まだ」
嘘だった。
奴——橘 仁、二十八歳——は、それ以上何も言わなかった。俺も何も言わなかった。部屋に流れるのは換気扇の音と、どこかで鳴り続ける工事の音だけだった。
付き合い始めて、もうすぐ三年になる。
最初の一年は良かった。いや、良かったというより、俺は何も考えていなかった、と今ならわかる。橘と話すのが楽しかった。橘と笑うのが好きだった。橘が俺のことを「おまえだけだよ」と言ったとき、それが世界の全部みたいに思えた。
どこで変わったんだろう。
たぶん、俺が変わったんじゃない。橘が変わったわけでもない。ただ、距離が縮まるにつれて、見えてくるものが増えただけだ。
橘は、仕事ができる。誰にでも優しい。ユーモアがあって、場を読むのがうまい。俺がそれに惹かれたのも、俺がそれに疲れてきたのも、たぶん同じ理由だ。
橘は、俺にも、他の誰にでも、同じ顔で優しい。
それが——どうしようもなく、苦しかった。
その日の夜、橘の会社の同期だという男が家に来た。
「急に悪いね、悠斗くん」
西条という男は、ドアを開けた瞬間から俺の顔を覚えているような目をした。三十手前で、橘とは学生時代からの付き合いらしい。よく笑う男で、家に入るなり橘と笑い合いながら缶ビールを開けていた。
俺はキッチンで枝豆を茹でながら、二人の会話を聞いていた。
「あのプロジェクト、結局橘がぜんぶ持ったんだろ」
「そんなことないって」
「またそういうこと言う。おまえって昔から、自分が損しても気づかないふりするよな」
橘は笑って否定した。俺は枝豆が茹で上がったのに、しばらくそのまま立っていた。
自分が損しても気づかないふりをする。
俺がずっと言えなかったことを、西条は一言で言い切った。
別に、それが悔しかったわけじゃない。ただ——そういうことを言える人間が、橘の隣にいるんだという事実が、枝豆を盛り付ける俺の手を少し遅くさせた。
三人で飲んだ。
西条は面白い話をたくさん持っていて、橘は何度も声を上げて笑った。俺は愛想よく相槌を打ちながら、自分がこの会話の中でどこに位置しているのかを考えていた。
橘は時々、俺のグラスが空になると注いでくれた。
それだけは確かな気がして、それだけで十分だと思おうとした。
「悠斗くんはどんな仕事してるの?」
西条が聞いた。悪意はない。ただの世間話だ。
「デザインの仕事です。フリーで」
「へえ、すごいね。橘から聞いてたよ、センスあるって」
俺は橘を見た。橘は笑って「言ったっけ」と言った。
嘘ではないかもしれない。でも俺は、橘の口から直接その言葉を聞いたことがなかった。
褒めるなら、俺に言えばいいじゃないか。
そう思った瞬間、自分の小ささが恥ずかしくなって、俺はビールを一口飲んだ。
西条が帰った後、橘は「楽しかったね」と言った。
「うん」
「西条、おまえのこと気に入ってたよ」
「そう」
橘は少し黙ってから、「疲れた?」と聞いた。
「ちょっとね」
それは本当のことだったけど、俺が疲れていた理由は言わなかった。橘もそれ以上は聞かなかった。
俺たちの会話はいつも、こんな形で終わる。
問いかけと、不完全な答えと、それを受け入れる沈黙。どちらかが踏み込めば変わるのかもしれない。でも踏み込んだ先に何があるかを考えると、俺は足が止まる。
橘はシャワーを浴びに行った。
俺はソファに一人で座って、空になったビール缶を並べた。三本。俺が二本、橘が一本、西条が三本。こんなことを数えている自分が、少し滑稽だった。
次の週末、俺は一人で昔よく行っていたカフェに行った。
特に理由はなかった。ただ、橘と二人でいる部屋に、なんとなく居づらくなっていた。
窓際の席でスケッチブックを開いて、何も書かないまま三十分が過ぎた。
メッセージが届いた。橘からだった。
「今日、どこ行ったの?」
俺は少し考えてから、こう返した。
「ちょっと気分転換。夜には帰る」
既読がついて、すぐに返信が来た。
「了解。ご飯作っとくね」
それだけだった。
俺はスマホを伏せて、窓の外を見た。曇った空の下、人々が傘を持たずに歩いている。降り出しそうで降り出さない、中途半端な空。
橘のことが、嫌いじゃない。
それは本当だ。むしろ——まだ好きだから、こんなに苦しいんだとわかっている。
でも「好き」だけでは足りないものが、俺の中にある。それが何なのかも、うまく言葉にできない。ただ形のない何かが、じわじわと俺たちの間に滲み出しているような気がして、俺はそれに名前をつけることが怖かった。
家に帰ると、橘がキッチンに立っていた。
「パスタでいい?」
「うん」
俺はダイニングチェアに座って、橘の背中を見ていた。慣れた手つきで食材を切っている。こういうとき、橘は余計なことを言わない。料理をしているときだけ、奴は静かだ。
「ねえ」
俺は、気づいたら声を出していた。
橘が振り返る。
「なに?」
言葉が出てこなかった。聞きたいことはあった。俺のこと、ちゃんと見えてる? とか。俺に言えないことを、他の誰かには話してる? とか。でも全部、喉のあたりで形を失った。
「……パスタ、ペペロンチーノにして」
橘は一秒だけ俺を見てから、「わかった」と言って前を向いた。
その一秒の中に何かがあった気がしたけど、俺にはそれを確かめる勇気がなかった。
夕食の間、俺たちは仕事の話をした。
橘は来週のプレゼンのことを話した。俺は先週入った案件のことを話した。どちらの話も、聞いた相手がそれなりに相槌を打てる程度のことだった。
本当のことは、何も言わなかった。
食器を洗いながら、俺は思った。
俺たちはちゃんと会話している。笑う場面もある。気を遣い合っている。それなのに——何かが、噛み合っていない。パズルのピースが一枚だけ裏返しになっているような、そういうずれを俺は感じ続けている。
それを橘は感じているんだろうか。
感じていて、見ないふりをしているのか。
感じていないとしたら、それはそれで、別の種類の怖さだ。
洗い終えた皿を棚に戻しながら、俺はひとつのことを決めた。
まだ言わない。でも、いつまでも言わないままではいられない。
その「いつか」がいつなのか、俺にはわからなかった。ただ、今夜ではないということだけが、はっきりしていた。
橘が先に眠りについた頃、俺は暗い天井を見ていた。
隣から、穏やかな寝息が聞こえてくる。
こういうとき、橘の寝顔を見ると——いつも、少し、胸が痛くなる。
嫌いじゃないから。
それだけは、まだ本当だから。
俺は目を閉じた。眠れないとわかっていながら、それでも目を閉じた。暗闇の中で、言えなかった言葉たちが静かに漂っている。
明日も、俺たちはたぶん普通に起きて、普通に話して、普通に一日を終える。
その「普通」が、どこまで続くのか。
続けることが正解なのか、違うのか。
俺にはまだ、答えが出ていなかった。

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