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『星の数ほど、君の話を聞きたい』


 宇宙船の中で一番好きな場所は、エンジンルームの隣にある小さな観測窓だ。

 直径三十センチほどの丸い窓。フレームはところどころ錆びていて、縁に指を置くと冷たさが骨まで伝わってくる。でも、ここから見える星は、どこよりもくっきりしている気がするんだ。

 僕――橘リョウ、二十二歳、宇宙貨物船『ペリカン号』の新米ナビゲーター――は今日も非番の時間をこの窓の前で過ごしていた。

 「また来てる」

 背後から声がした。

 振り返ると、船のメカニックを担当しているサオリさんが腕を組んで立っていた。三十手前で、いつも作業着に油汚れをつけたまま歩き回っている人だ。髪を雑にひとつに束ねていて、表情はたいてい「めんどくさい」と「まあいいか」の中間あたりにある。

 「観測データの整理、もう終わったの?」

 「……だいたい」

 「だいたい、ね」

 彼女はため息をついて、僕の隣に立った。特に窓を見るわけでもなく、何かを確認するように壁のパネルを叩いた。


 ペリカン号に乗り込んで四ヶ月が経つ。

 乗組員は六人。船長のクロカワさんは寡黙で、食堂では毎朝コーヒーを二杯飲んでから話しかけないと不機嫌になる。料理担当のデニスは陽気だけど、たまに作る「故郷の味」と称する料理がハズレの日があって、その日は全員が食堂で静かな顔をしている。通信士のユナさんはいつもイヤホンをしていて、話しかけると「ん?」と片方だけ外してくれる。

 それから、サオリさん。

 正直に言うと、最初は怖かった。

 初日に挨拶したとき「ああ」とだけ返ってきて、そのまま背中を向けられた。食事の時間に隣に座ったら「そこ僕の場所だけど」と言われて、あわてて移動した。――いや、そこに名前のプレートとか書いてなかったし。

 でも、一ヶ月目のある夜、エンジンの異音で眠れなかった僕がこの観測窓の前に来たら、サオリさんがすでにいた。

 お互い何も言わなかった。

 ただ、二人で窓の外を見ていた。

 十分か、二十分か。

 「うるさいよね、あのエンジン音」と彼女が言った。

 「はい」と僕が答えた。

 それだけだった。

 でも、次の日から「そこ僕の場所だけど」とは言われなくなった。


 今日、観測データの整理が「だいたい」しか終わっていない理由には、少し訳がある。

 航路計算の途中で、ずっと気になっていたことを思い出してしまったのだ。

 出発前、地球で母から言われた言葉。

 「リョウ、あなたって昔から、大事なことを後回しにするでしょ」

 それだけ言って電話を切った。

 何が大事なことなのか、わからないまま宇宙に来た。

 四ヶ月経っても、わからないままだ。

 「何ぼーっとしてるの」

 サオリさんの声で我に返った。

 「いや、ちょっと考えごとを」

 「仕事中に?」

 「非番です」

 彼女は少し口の端を動かした。笑ったのか、呆れたのか、よくわからなかった。


 夕食後、デニスの「故郷の味」がまたハズレで、食堂には沈黙が漂っていた。

 デニスだけが「どうだ!」という顔をしていた。

 僕はスプーンを持ったまま固まっていた。

 サオリさんは一口食べて、静かにパンだけ食べ始めた。

 「……なんで毎回挑戦するんですかね」と、小声でユナさんがつぶやいた。

 僕は笑いをこらえながらパンに手を伸ばした。サオリさんと目が合った。

 彼女は何も言わなかったけれど、パンを僕の方にすっと押してきた。

 「ありがとうございます」

 「別に」

 こういう人だ、と思った。

 言葉は少ないのに、行動は意外と細かいところを見ている。


 その夜、また眠れなかった。

 エンジン音のせいじゃない。母の言葉が、頭の中をぐるぐるしていた。

 大事なことを後回しにする。

 宇宙に来たのも、少し逃げた部分があるのかもしれない。将来のこと、地球に残した人間関係、答えを出さないといけないこと。全部を「帰ってから考えよう」にして、ここに来た。

 観測窓の前に来ると、サオリさんがまたいた。

 今度は床に直接座って、膝を抱えていた。

 「眠れないんですか」

 「あなたもでしょ」

 隣に座った。

 しばらく、何も言わなかった。窓の外では星が動いているのか止まっているのかわからなかった。宇宙の中では、自分が動いているのかどうかも、感覚だけじゃわからなくなる。

 「サオリさんって」と、口が動いた。「なんでこの船に乗ったんですか」

 ずっと聞けなかったことだった。

 彼女はしばらく黙っていた。

 「……なんで急に」

 「聞いたことなかったなと思って」

 また沈黙。

 僕は少し後悔した。踏み込みすぎたかな、と。

 でも。

 「地球にいると、自分がどのくらいちっぽけか忘れるから」

 彼女はそう言って、窓の外を見た。

 「こっちにいると、毎日思い知らされる。それが、嫌いじゃない」

 なんとなく、わかる気がした。

 いや、「わかる気がする」じゃなくて、本当にわかった。

 僕も同じだったから。

 「僕も」と言いかけて、止まった。

 なんとなく、全部話してしまいそうな気がして。

 「……僕も、そういう感じかもしれないです」

 曖昧な言い方だった。

 でも、サオリさんは「ふうん」と言っただけで、それ以上追ってこなかった。

 それが、少しありがたかった。


 どのくらいそこにいたか、わからない。

 サオリさんが立ち上がった。

 「明日、第三エンジンの点検あるから寝る」

 「お疲れ様です」

 彼女は廊下の方へ歩いていって、ふと振り返った。

 「あなた、話すと思ったより面白いね」

 僕は何も言えなかった。

 「おやすみ」

 それだけ言って、消えていった。


 一人になった観測窓の前で、僕はしばらく窓の外を見ていた。

 星がある。数え切れないくらい。

 サオリさんはこの星を見て、ちっぽけさを感じると言った。

 僕は――何を感じているんだろう。

 まだうまく言葉にならない。

 でも、今夜は少しだけ、眠れる気がした。

 窓の冷たいフレームに指を置いて、もう少しだけ、そこにいた。


 翌朝。

 食堂に行くと、サオリさんがコーヒーを飲んでいた。

 僕が席に着くと、何も言わずに向かいのカップを指で示した。

 コーヒーが、一つ余分に置いてあった。

 「……ありがとうございます」

 「別に」

 彼女は視線を窓の外に向けたまま、カップを口に運んだ。

 外には、また星が広がっていた。

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