定時を三十分過ぎたオフィスは、昼間とはまるで別の顔をしている。
蛍光灯の白い光だけが残って、フロアの端まで静かになる。外からは車の音が低く響いて、それがなんとなく夜の始まりみたいで、私はその時間がそれほど嫌いじゃない。
嫌いじゃない——というより、正直に言うと、少し好きだ。
理由は、自分でもちゃんとわかっている。
「田中さん、これ確認してもらえますか」
声をかけてきたのは、斜め前の席の宮本さんだった。
入社六年目、私より三つ年上。営業の数字は社内トップクラスで、後輩の面倒見がいいと有名で、昼休みはだいたい同期と弁当を食べている。それだけ知っていれば十分なはずなのに、私はなぜか、もっと細かいことまで知ってしまっている。
たとえば、彼が集中しているときに眉間に小さな皺を寄せる癖とか。報告書を読むとき、無意識にペンのキャップをカチカチ鳴らすこととか。
三ヶ月も同じフロアにいれば、そのくらい覚えてしまう。それだけのことだ、と自分に言い聞かせている。
「はい、少し待ってください」
差し出された資料を受け取りながら、私はなるべく自然に返事をした。でも視線が資料に落ちる前に、一秒だけ彼の顔を見てしまった。残業で少し疲れた顔をしている。それでも目が合うと、ちゃんと笑う。
それがずるいのだ。
資料の確認には、思ったより時間がかかった。
先月のキャンペーン分の数字が一部抜けていて、過去のファイルを遡る必要があった。私が画面とにらめっこしていると、宮本さんが自分の席に戻らずに、斜め後ろに立ったままでいることに気づいた。
「手伝いましょうか」
「いえ、大丈夫です。もう少しで」
「そうですか」
それっきり、彼は何も言わなかった。でもその場を離れなかった。
なんでそこにいるんですか、と聞けたら楽なのに、私には聞けない。聞いてしまったら、気にしていることがばれる気がする。こういう些細なことで動揺している自分がばれるのが、一番怖い。
キーボードを打ちながら、肩に気配を感じていた。香りとか、体温とか、そういう曖昧なものが少しだけ近くにある感じ。
数字を見ているはずなのに、画面が全然頭に入ってこなかった。
ようやく確認が終わって、「修正が必要な箇所が二ヶ所あります」と報告すると、宮本さんは「助かりました」と言って深く頭を下げた。
そのまま自分の席に戻っていく背中を、私はぼんやりと見ていた。
いけない、と思って視線を戻す。デスクの上には飲みかけのペットボトルと、付箋だらけのノートと、今日一日の私の仕事の残骸みたいなものが散らかっている。こんな机を毎日見られているのかと思うと、なんとなく恥ずかしい。
ばかみたいだ、と自分でも思う。
机が恥ずかしい、なんて、そんなこと三ヶ月前の自分には絶対思わなかった。
それから二十分ほどして、宮本さんが席を立った。
コートを手に持って、鞄を肩にかけて、帰り支度をしている。当たり前の光景なのに、なぜか少しだけ残念な気持ちになる。自分でも嫌になるくらい、素直な感情だ。
「お先に失礼します」
フロアに向かって言った言葉が、でも私の方に向きを変えた。
「田中さんも、あまり遅くならないようにしてくださいね」
私は反射的に顔を上げた。
彼は笑っていた。さっきの疲れた顔じゃなくて、もう少しやわらかい顔で。それだけのことなのに、言葉が一瞬、どこかに消えてしまった。
「……はい、そうします」
我ながら、平坦な返事だった。もっとうまく返せばよかった、とすぐに思う。でも彼はそれで十分そうに頷いて、エレベーターの方へ歩いていった。
遠ざかる足音を聞きながら、私はしばらく画面を見つめていた。
今の、何だったんだろう。
ただの声かけだ。先輩が後輩を気にかけるのは普通のことで、深い意味なんて何もない。それはわかっている。わかっているのに、さっきの顔が頭の中でまだ笑っている。
困ったな、と思う。
本当に、困った。
翌朝、出社すると宮本さんの机の上に缶コーヒーが置いてあった。
誰かに差し入れをもらったのか、自分で買ったのか、私には関係のないことだ。
でも、なぜか目に入ってしまった。
自分の席に荷物を置いて、パソコンを起動して、今日やるべきことを頭の中で整理する。そのあいだも、視線が一度だけそっちに向いた。
気づいたら、私もコーヒーを一本、鞄の中に持ってきていた。買ったのはいつだったか、昨日の帰りだったか。
渡すかどうかは、まだ決めていない。
たぶん、渡さないと思う。
……たぶん。

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