俺が今日も殺したのは、一人の老人だった。
もっとも、本人は死んでいない。心臓は動いているし、肺も膨らんでいる。昨日の昼に食べたカレーの味も、まだ舌の上に残っているはずだ。ただ——記憶だけが、消えた。
これが俺の仕事だ。
二〇四七年、記憶削除法が施行されてから八年が経つ。
慢性的な精神疾患の増加、トラウマによる社会コストの膨張——そうした問題への「人道的解決策」として、政府は記憶の選択的消去を合法化した。手術ではない。薬でもない。俺たちのような「削除士」が、専用のデバイスを用いて対象者の神経パターンに直接アクセスし、指定された記憶領域を無効化する。
名刺には「記憶整理士」と書いてある。
でも現場では、誰もそんな言い方はしない。
今日の依頼人は、横田という七十二歳の元教師だった。
「妻の死に際を、忘れたいんです」
彼は診察室の椅子に小さく座り、そう言った。皺の深い手が、膝の上で組まれていた。
「三年前です。ガンでした。最後の一週間、ずっと痛がっていて……私が何もできなくて。あの顔が、毎晩夢に出てくるんです」
俺はタブレットにデータを打ち込みながら、頷いた。これは典型的なケースだ。年間三万件以上処理している。妻の死、子供の事故、戦場の記憶、虐待の傷——人々は様々なものを捨てにくる。
「お気持ちはわかります。では、削除範囲を確認させてください。妻さんの最後の一週間のみ、でよろしいですか? それ以前の記憶——出会いや、結婚生活——は保持されます」
横田は少し考えてから、首を振った。
「……全部、消してください」
俺の手が止まった。
「全部、というのは」
「妻のことを、全部。出会いから、別れまで。四十年分、全部です」
彼の目には、涙も怒りもなかった。ただ、疲れがあった。それも、悲しみの疲れではなく——幸福を抱えることへの疲れだ、と俺は思った。
規定では、本人の書面同意があれば拒否できない。
俺はフォームを差し出した。
施術は三十分で終わった。
デバイスを横田の後頭部から外したとき、彼はしばらく天井を見上げていた。それから、ゆっくりと俺を見た。
「……あの、すみません」
「はい」
「私、なんで来たんでしたっけ」
俺は答えなかった。答えは、マニュアルに書いてある。「記憶の空白について尋ねられた場合、”生活上の整理のため”とだけ伝え、詳細は語らないこと」。
「生活の整理のためです」と俺は言った。「また何かあれば、いつでも」
横田は頷いて、診察室を出て行った。
廊下を歩く後ろ姿が、少し軽そうだった。
俺はそれを見ながら、コーヒーを一口飲んだ。
問題が起きたのは、翌日だった。
横田から電話がかかってきた。削除後に依頼人から連絡が来ることは、珍しくない。副作用の確認、追加依頼、手続きの問い合わせ——しかし彼の声は、違った。
「昨日、そちらにうかがいましたよね?」
「はい」
「私、なんで行ったんですか?」
俺はマニュアルを繰り返した。「生活の整理のためです」
「そうですか……」と彼は言った。「それで——今日、家を整理していたら、引き出しから写真が出てきましてね」
俺は黙って聞いた。
「女の人と、私が写っていて。二人で海の前に立って、笑っているんですよ。でも、誰なのかわからなくて。裏に名前も書いてない。でもその人……とても、綺麗な笑顔で」
俺はコーヒーカップを置いた。
「捨てた方がいいですか? 見ていると、なんだか胸が痛くて」
胸が痛い。
彼は言った。記憶を持っていないのに。
俺はデータベースを確認した。施術記録。削除範囲。神経パターンの無効化ログ。全て、正常に完了していた。
技術的には、完璧な施術だった。
「……捨てなくていいと思います」と、俺は言った。マニュアルにない言葉だった。「大切な写真かもしれませんから」
横田は「そうですね」と言って、電話を切った。
夜、俺は報告書を書きながら、考えていた。
記憶は消えた。
でも、なぜ彼の胸は痛むのか。
この仕事を始めて六年になる。俺は二万件以上の施術を行ってきた。悲しみを消し、トラウマを消し、恥を消し、愛を消した。依頼人はみな、軽くなって帰っていく。
それは正しいことだと、ずっと思っていた。
重いものを降ろすのは、罪ではない——そう教わった。記憶は所有物であり、所有物は処分できる。記憶を消すことは、過去を否定することではなく、未来を選ぶことだ。
俺はそれを信じて仕事をしてきた。
だが、横田の「胸が痛い」という言葉が、どうしても頭から離れない。
翌週、俺は上司の三浦に相談した。
三浦は創業期からのベテランで、施術数は業界最多だ。白髪まじりの髪を撫でながら、俺の話を聞いた。
「よくある反応だよ」と彼は言った。「記憶が消えても、感情の残滓が残ることがある。神経接続の問題じゃなくて、身体の問題だ。心臓の鼓動とか、呼吸のリズムとか——そっちに、記憶が染み込んでる場合があって。完全には消えない」
「消えない?」
「ああ」三浦は書類に目を落とした。「でも問題ない。数週間で薄れる。身体は学習するから」
俺は頷いた。
でも、その夜、俺はあることに気づいた。
三浦の説明は、おかしかった。
「数週間で薄れる」——それは、俺も経験則として知っている。削除後の感情残滓は、確かに薄れる。だが、それは「身体が学習する」からではない。俺たちは施術から二週間後、追加でフォローアップ施術を行う。公式には「定着確認」と呼ばれているが——
俺は、その施術の正確な内容を、見せてもらったことが一度もなかった。
データベースに、もぐった。
管理者権限は持っていない。でも、システム設計に穴があることは、入社初年度から知っていた。ずっと使わずにいた穴だ。
フォローアップ施術のログを開いた。
「定着確認」の施術内容——削除範囲のスキャン、パターンの照合——
そして、もう一つ。
【感情残滓領域への二次介入、完了】
俺は画面を見つめた。
つまり——最初の施術で「記憶」を消す。だが感情は残る。二週間後、その感情の残滓も消す。
二段階だ。
依頼人には、一段階目しか説明していない。
俺は自分の手を見た。この手で、何人分の感情を消したのか。彼らは「記憶だけ消えた」と思っている。でも実際は——
待て。
俺は深呼吸した。
これは、合法かもしれない。同意書には「副作用の解消処置を含む」という文言があったはずだ。感情残滓は副作用だ。それを消すことは——
俺はアーカイブを漁った。創業期の内部文書。記憶削除法の立法過程。
そして、一つのファイルを見つけた。
タイトルは、「Project Hollow」。
日付は——八年前。記憶削除法が施行される、六ヶ月前だ。
ファイルには、こう書いてあった。
「完全な記憶削除は、対象者のアイデンティティを破壊するリスクがある。しかし感情的な記憶——愛着、恐怖、後悔——これらは海馬だけでなく扁桃体に保存されており、従来手法では消去不能だった。Project Hollowの目的は、感情記憶の段階的除去を通じて、対象者を段階的に”最適化”すること——」
最適化。
俺はその言葉を、三回読んだ。
最適化された人間とは何か。
感情的な傷がない人間。重い記憶がない人間。过去の愛着から自由な人間——
俺の胸に、冷たいものが落ちてきた。
横田は今日、フォローアップ施術の予約が入っている。
午後二時。あと三時間後だ。
俺は横田に電話をした。
「あの写真、まだ持っていますか」
彼は少し間を置いてから、「はい」と言った。「捨てられなくて」
「今日の予約、キャンセルしてください」と俺は言った。「理由は聞かないでください。ただ——来ないでください」
沈黙があった。
「……あなた、私に何かを隠してますよね」
俺は答えなかった。
「その写真の人、誰なんですか」
俺はマニュアルを思い出した。答えてはいけない。詳細を語ってはいけない。施術の内容を漏らすことは、守秘義務違反だ。
「奥さんです」と、俺は言った。
長い沈黙があった。
「……そうですか」
横田の声が、少し震えた。
「胸が痛いのは、そういうことでしたか」
翌日、俺は出社しなかった。
三浦から七回着信があった。会社のアドレスから警告メールが来た。法務部から封書が届いた。
俺はそれらを全て無視して、自分の施術記録を調べていた。
六年間、二万件以上。
二段階目の施術——感情残滓の除去——を経た依頼人の数を数えた。
一万八千四百二十二人。
彼らは今、何を感じているのか。いや——何も感じていないのか。
俺は自分のデータも確認しようとした。自分自身の記録を。
システムが、弾いた。
アクセス拒否。
俺はもう一度試した。また弾かれた。
なぜ、俺自身の記録に、アクセス制限がかかっているのか。
削除士の記録にアクセス制限がかかるのは——
一つだけ、理由がある。
俺は窓の外を見た。曇り空だった。
六年前、この仕事を始めた理由を、俺は覚えていない。履歴書には「社会貢献への意志」と書いた記憶がある。でも、なぜその仕事を選んだのか——
その部分が、霞んでいる。
ずっと、気にしていなかった。
でも今は——
俺の手が、少し震えた。

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