死ぬとき、人は何を思うのだろう。
俺は、領収書のことを考えていた。
経費精算の締め切りは明日だ。タクシー代、接待費、あのホテルのルームサービス代。上司に怒られる。また残業になる。
そんなことを考えながら、俺は横断歩道を渡って——
気づいたら、剣を握っていた。
名前は神崎蓮。享年二十九歳。職業、会社員。
異世界転生というものを、俺は信じていなかった。というより、考えたことすらなかった。マンガやラノベの話だと思っていた。中学の頃に読んだ『あの世界』シリーズは面白かったが、それは所詮フィクションだと——
でも、目の前に広がるのは、石畳の広場だ。
松明の炎が揺れている。空には二つの月。群衆が俺を囲んで跪いている。
「勇者様。ご覚醒、おめでとうございます」
白髪の老人が頭を垂れた。
俺は剣を見た。柄に何かの紋章が刻まれている。手に吸い付くように馴染んでいる。
(ああ、これが「それ」か)
驚くほど冷静だった。
人間、本当に非常識なことが起きると、感情より先に理解が追いつかなくなる。それだけのことだと思う。
それから三ヶ月が経った。
俺は剣を学んだ。魔法を学んだ。この世界の言語はなぜか最初から話せた。食事は悪くなかった。ベッドは硬かった。
そして、人を殺した。
最初の一人は、魔物だった。人型ではあったが、目が三つあって、言葉を話さなかった。だから大丈夫だと思った。自分に言い聞かせた。
三十人目くらいから、数えることをやめた。
今日、俺は城に帰ってきた。勝利の凱旋。広場には人が溢れ、花が投げられた。子供が笑っていた。
「勇者様のお力で、東の魔族の砦が陥落しました」
宰相のグレアムが言った。白髪交じりの、細い目の男だ。最初から、なんとなく好きになれなかった。
「死者は?」
「魔族側は推定三百。我が軍は十七名」
俺は頷いた。
十七人。名前も顔も知らない人間が、俺の作戦で死んだ。
悲しいとか、申し訳ないとか、そういう感情は——
不思議と、なかった。
その夜、城の図書室に忍び込んだ。
習慣になっていた。眠れない夜に、一人でここに来る。
古い書物を読む。この世界の歴史を、俺はまだよく知らない。勇者として召喚され、訓練され、戦場に送られた。誰も歴史を教えてくれなかった。必要ないと思われていたのか、それとも——
棚の奥に、鍵のかかった扉があった。
今まで気にしなかった。でも今夜、なぜか気になった。
試しに剣の柄で叩いたら、鍵が外れた。
(勇者権限、ってやつか)
苦笑しながら中に入る。
燭台に火を点けた。
書物が並んでいる。表紙に書かれた文字を読む。
『第一勇者召喚記録』
『第二勇者討伐作戦』
『第三勇者——精神崩壊の記録と処置』
俺は手が止まった。
『第三勇者——精神崩壊の記録と処置』
ゆっくりと、その本を開く。
日付が書かれている。四百年前。召喚された勇者の話。戦場で活躍し、魔王を追い詰め——そして、ある夜、突然泣き始めて、止まらなくなった、と。
「彼は最後まで、自分が何者かを理解しなかった。それが救いだったのかもしれない」
記録者の所感がそう締めくくっていた。
俺は本棚を見渡した。
第一、第二、第三——
第七まであった。
つまり俺は、八人目だ。
七人の勇者が、この世界に召喚された。七人が、魔族と戦った。
で、その七人は今、どこにいる?
どの本にも、「その後」が書かれていなかった。
翌朝、グレアムを呼んだ。
「先代の勇者たちは、今どこにいますか」
一瞬だった。
ほんの一瞬、グレアムの目が揺れた。
「勇者様。彼らは皆、元の世界にお帰りになりました。魔王討伐ののちに」
「全員?」
「全員でございます」
「それを証明する記録は?」
「……記録は残っておりません。古いことゆえ」
俺は笑った。自然に笑えた。
「そうですか」
それだけ言って、立ち去った。
廊下を歩きながら、俺は計算をしていた。
七人の勇者。全員が帰還したなら、記録がないはずがない。この国は何でも記録する。宰相の日常業務まで書類に残すような国だ。
それなのに、勇者の帰還だけ記録がない。
俺が図書室で見つけた本は、鍵のかかった扉の奥にあった。
なぜ鍵をかける必要があった?
俺は自分の手を見た。
三ヶ月で、どれだけ人を——魔族を——殺したか、もう数えていない。ただ、感覚が麻痺していることは分かっていた。最初はあった躊躇が、今はない。剣を振るうのが、息をするのと同じくらい自然になっている。
それは、訓練の成果だ。そう思っていた。
でも。
「精神崩壊の記録と処置」
あの言葉が頭から離れない。
もし、勇者というのが——
もし、俺たちが帰還するためではなく、別の目的のために——
「神崎様」
声をかけられて振り返った。
王女のシェーラだった。十七歳。金髪で、いつも少し悲しそうな目をしている。俺に対してだけ、妙に親切にする。最初は好意だと思っていたが、ある日気づいた。彼女は俺を見るとき、目の奥に何か——罪悪感のようなものを滲ませる。
「少し、お時間よろしいですか」
「……どうぞ」
シェーラは廊下を見回し、声を潜めた。
「勇者様。昨夜、図書室の奥に入られましたか」
「入りました」
彼女の顔が青くなった。
「あの本を、読みましたか」
「読みました」
「……そう、ですか」
シェーラは目を伏せた。長い沈黙。
「シェーラ様」
俺は穏やかに言った。
「あなたは最初から知っていたんですね」
彼女は答えなかった。答えないことが、答えだった。
「教えてください。先代の勇者たちは、何人、帰還できましたか」
シェーラが唇を噛んだ。
震える声で、彼女は言った。
「……一人も」
やっぱりか、と思った。
怒りは——なかった。
代わりにあったのは、奇妙な落ち着きだった。
「俺が百人目を超えたとき、何かが変わるんですか」
シェーラの目が見開いた。
「なぜ、それを——」
「第三勇者の記録に書いてありました。彼が崩壊する直前、九十七人を倒していたと」
本当は書いていなかった。でも、シェーラの反応で確認できた。
俺は剣の柄を握った。
「あと三人、ですね」
シェーラが何かを言おうとした。
そのとき、廊下の角から兵士が現れた。
甲冑を着た、六人の兵士。
グレアムが後ろに立っていた。
「勇者様。少々、ご同行いただけますか」
俺は笑った。
「もちろん」
剣を抜かずに、歩き出した。
その背中で、シェーラが囁いた。言葉にならない、息だけの声で。
「——逃げて」
俺は足を止めなかった。
ただ、心の中だけで答えた。
(まだだ。あと三人、倒してから考える)
それが正気の判断かどうか、分からない。
ただ——何かが、俺の中で変わろうとしていた。
三ヶ月前、横断歩道を渡っていた会社員は、もうどこにもいない。
代わりにいるのは、百人を殺しかけた男だ。
この感覚を、以前は「成長」と呼んでいた。
でも今は——
これに何と名前をつければいいか、分からない。

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