電話が鳴ったのは、午前三時十七分だった。
着信音の前に、なぜか目が覚めた。そういうことがある。悪いことが来る前に、体が先に知っている。
「もしもし」
「お父さん?」
娘の声だった。
安堵が胸を満たす——その一瞬前に、おかしいと思った。
娘は、昨夜から連絡が取れなかった。警察に相談しようか迷っていた。だから安堵した。当然だ。
でも、何かがおかしかった。
声のトーンが、いつもと違った。感情が、薄すぎた。
「どこにいるんだ。心配したぞ」
「ごめんね。ちょっと色々あって」
「色々って何だ。説明しろ。お前が急に——」
「お父さん、一つ聞いていい?」
娘が、俺の言葉を遮った。
あいつがそんなことをするのは、初めてだった。
俺の名前は、九条雄一。四十八歳。刑事を二十三年やっている。
嘘は見抜ける。声だけで人間の状態を読む訓練を、骨が軋むほど積んできた。
だから気づいた。
電話の向こうにいる「娘」の声は、確かに彩の声だった。声紋が一致している、などという科学的な話ではなく、もっと本能的なレベルで、それは俺の娘の声だった。
でも同時に。
それは、俺が知っている彩ではなかった。
「お父さんって、人を殺したことある?」
沈黙が落ちた。
俺は刑事だ。正当防衛で、一度だけある。それは公記録に残っている話で、隠すことでもない。でも娘がそれを知っていることを、俺は知らなかった。
「なんでそんなことを聞く」
「答えてくれたら、私がどこにいるか教える」
交渉だ。
俺はベッドに座ったまま、暗い部屋で壁を見た。刑事の頭が動き始める。娘を心配する父親の部分を、意識的に後ろに押しやった。それをするのがうまくなりすぎたせいで、妻に逃げられた。
「一度だけある。十一年前の話だ」
「どんな気持ちだった?」
「彩——」
「どんな気持ちだった?」
また、遮られた。
俺は深呼吸した。「怖かった。手が、一週間震えが止まらなかった」
電話の向こうで、何かが動いた。衣擦れのような音。あるいは、息の音。
「そっか」と彩は言った。「お父さん、正直に言ってくれてありがとう」
「どこにいるんだ」
「ねえ、お父さん」
「何だ」
「私のこと、好き?」
質問の幼さに、胸が痛くなった。二十三歳になっても、根のところはそういうやつだ。母親が出て行ってから、ずっとそうだった。俺の顔色を窺って、必要とされているかどうかを確かめようとする。
それを俺がきちんと答えてやれたことは、ほとんどなかった。
「好きだ」と俺は言った。
絞り出すような言葉だったと思う。慣れていない言葉だったから。
「……うん」
彩の声が、少しだけ変わった。
それまでの、感情が薄い声ではなくなった。一瞬だけ、俺の知っている娘の声が戻ってきた。
「じゃあね、お父さん」
「待て。場所を——」
電話が切れた。
俺は五分間、動けなかった。
それから携帯を握りしめて発信履歴を確認した。着信はあった。番号は彩のものだった。
折り返すと、繋がらなかった。
電源が切れているか、電波が届かないか。
俺は立ち上がって、コートを掴んだ。思考が高速で回転する。二十三年の経験が、感情より先に動く。
彩の行動範囲を整理する。最後に確認した場所。友人関係。最近の変化。
三ヶ月前から、様子がおかしかった。
食欲が落ちた。外出が増えた。夜に帰らない日があった。聞いても「仕事が忙しい」と言った。彩はフリーのグラフィックデザイナーで、俺には業界のことがわからない。だから信じた。信じたふりをした、というほうが正確かもしれない。
向き合うのが怖かった。
娘の変化と正面から向き合えば、俺が父親として何かを間違えてきたという事実と向き合うことになる。それが怖かった。刑事として人間の最悪を見続けてきた俺が、娘の目を見ることから逃げていた。
靴を履きながら、そのことを初めて、はっきりと認めた。
マンションの駐車場に降りたとき、スマホに通知が来た。
彩からではなかった。
見知らぬ番号からのメッセージだった。
テキストだけだった。画像も、添付も、何もない。
「お父さんへ。私は昨日死にました。でも今夜あなたと話せてよかった。ありがとう。——彩」
俺は立ち止まった。
駐車場の蛍光灯が、ジジジと音を立てていた。
「昨日死にました」。
過去形。
俺は刑事だ。こういう文章を、職業として何度も見てきた。遺書、という形で。
でも。
さっき電話で話した。
確かに話した。声を聞いた。俺の知っている彩の声だった。一瞬だけ、感情が戻ってきた瞬間があった。「うん」と言った声を、俺はまだ耳の奥に感じている。
どういうことだ。
送信時刻を確認した。午前三時二十二分。電話が終わった、五分後だった。
俺は着信履歴をもう一度見た。
午前三時十七分。彩の番号から。
それは、確かにそこにあった。
でも。
俺はこの仕事で、一つのことを学んでいる。
記録は、操作できる。
震える手で、俺は彩の担当医のことを思い出した。三ヶ月前、彩が「健康診断で少し引っかかった」と言ったとき、俺は詳しく聞かなかった。向き合うのが怖くて。
スマホを耳に当てた。
深夜にかけていい相手ではないが、もうそんなことを言っている場合ではない。
呼び出し音が三回鳴って、繋がった。
「九条です。娘のことで、聞かないといけないことがある」
相手の沈黙が、全てを語っていた。
その沈黙の長さで、俺は理解した。
彩は、本当のことを言っていた。
そして俺が理解できていないのは——では、さっき電話してきたのは、誰だったのか、ということだ。

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