気づいたのは、他人の葬儀の帰り道だった。
電車の窓に映る自分の顔を見て、私はふと思った。あれ、と。この人、いつから泣かなくなったんだろう。
三十七歳。独身。フリーランスのライター。
生活に不満はない。仕事もある。友人も、まあ、いる。恋愛はしばらくしていないが、それも別に苦ではない。ただ、泣かない。ドラマを見ても、小説を読んでも、感動したと頭では思うのに、目が乾いたままだ。
今日の葬儀は、大学時代の先輩のお父様だった。先輩は喪主として、ずっと気丈に振る舞っていた。けれど出棺の瞬間、一度だけ顔が崩れた。ほんの一瞬。すぐに戻したけれど。
私はその顔を見ながら、自分が何も感じていないことに気がついた。
悲しい、とは思った。でもそれは「悲しいと思わなければならない場面だ」という認識であって、胸の奥が震えるような、あの感覚じゃなかった。
いつからだろう。
電車の中で、スマートフォンのメモアプリを開いた。職業柄、何かあるとすぐに記録する癖がついている。「最後に泣いたのはいつか」と打ち込んで、しばらく考えた。
思い出せなかった。
家に帰って、日記を引っ張り出した。
私は二十代の頃から日記をつけている。手帳サイズのノートに、その日あったことと、その日感じたことを書く。感情の棚卸し、とでも言うべき習慣だ。
最新のノートをめくる。今年の一月から。
読み返してみると、確かに感情らしきものは書いてある。「今日は疲れた」「原稿が思ったより早く終わった、よかった」「久しぶりに〇〇と飲んだ、楽しかった」。でも全部、薄い。水で薄めたような言葉が並んでいる。
去年のノートを出す。
同じだった。
一昨年。
同じ。
その前。
同じ、だが、少しだけ違う。
四年前の三月、こんな記述があった。
「映画を見て泣いた。久しぶりだった気がする、と書こうとして、確かめたくなった。去年の夏に泣いた記憶はある」
私はその文字を三回読んだ。
四年前の私が「久しぶり」と感じていたということは、少なくとも一年ほどのブランクがあったということだ。つまり私は、五年以上、泣いていない。
いや、もしかしたらもっと長い。
四年前の「久しぶり」が、どれくらい久しぶりだったかは、もう確かめようがない。
翌日、取材の仕事があった。
高齢者施設で、九十二歳のおばあさんにインタビューをする仕事だ。戦後の暮らしについて聞く、地域誌の連載企画。
彼女の名前は、ハルさんといった。
小柄で、背が丸く、声は細かったが、話し始めると止まらなかった。戦争中のこと、夫が帰ってこなかったこと、子どもを三人育てたこと、息子が先に逝ったこと。
私は相槌を打ちながら、メモを取りながら、聞いていた。
「あなた、泣かないのね」
ハルさんが急に言った。
「え」
「私の話を聞いて。みんな泣くのよ、大抵。若い子は特に」
私は少し戸惑った。「すみません、取材中なので、冷静に聞こうとしていて」
「違うわよ」とハルさんは言った。穏やかに、でも確かな声で。「あなた、もとから泣けない顔してる」
私は返す言葉がなかった。
「泣けなくなったのは、いつから?」
ハルさんの目は、皺の中でも、はっきりと光っていた。
「……わからないんです」と私は正直に言った。「いつからか、気づいたら泣かなくなっていて」
ハルさんはしばらく黙っていた。
「そう」と言った。「私も一時期そうだったわ」
「ハルさんも?」
「ええ。ある時期からぴたっと泣けなくなって、十年くらいそうだった。取り戻したのはね」と彼女は窓の外を見た。「息子が死んだ時よ」
私は何も言えなかった。
「悲しかったわよ、もちろん。でもね、涙が出た時に思ったの。ああ、私まだ生きてる、って。泣けるっていうのはね、まだ何かを大事にしてるってことなのよ。失って怖いものがあるってこと」
帰り道、また電車に乗った。
窓に映る自分の顔を見た。
昨日と同じ顔。変わらない。
でも、何かが引っかかっていた。
ハルさんの言葉じゃない。もっと前から、どこかで気になっていたこと。
私は、何を怖いと思っているだろう。
仕事がなくなること? まあ、困るが、怖いとまでは言えない。孤独? 慣れてしまった。誰かを失うこと?
そこで私は止まった。
誰か、を失う。
私には、今、失って怖い人間がいるだろうか。
考えた。友人の顔を浮かべた。先輩。家族。それぞれに、いなくなったら悲しいとは思う。思う、が。
怖い、とは少し違う。
なぜだろう。
電車が駅に止まった。ドアが開いて、人が乗り降りした。
その時、ふと、ある人の顔が浮かんだ。
浮かんで、すぐに、私はその顔を頭から追い出した。
無意識に。
反射的に。
なぜ追い出したのか、自分でもわからないまま、電車はまた走り出した。
家に着いて、日記を開いた。
今日あったことを書こうとして、ペンが止まった。
さっき追い出したその顔のことを、書くべきか迷った。
書いたら、何かが変わりそうで怖かった。
怖い。
私は今、怖いと思っている。
それはつまり。
ペンを置いて、天井を見た。
まだ泣けなかった。でも、胸の奥のどこかが、久しぶりにざわついていた。
追い出したその顔には、名前がある。連絡先も知っている。ただ、五年間、一度も連絡していない。
なぜ連絡しなかったのか。
なぜ今日、反射的に記憶から締め出したのか。
私にはわかっている。
わかっているから、書けない。

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