死んだ人間の記憶を売る仕事をしている。
それが僕の職業だ。名刺には「記憶遺産整理士」と書いてある。自分で考えたわりにはまともな名前だと思っている。
2047年の東京では、人が死ぬとその人の記憶データが遺族に引き渡される。脳に埋め込まれたニューラルチップが、生涯の記憶を圧縮してクラウドに保存し続ける仕組みだ。政府が「感情的遺産の保護」と呼んでいるそれを、僕たちは裏市場で売り買いする。
合法か違法か、と聞かれれば——グレーだ。
その日、依頼人は僕のオフィスに現れた。
オフィスといっても新宿の雑居ビルの六畳間で、窓の外には錆びた非常階段と、向かいのビルの換気扇しか見えない。それでも依頼人はドアを三回ノックして、「失礼します」と言ってから入ってきた。育ちの良さが滲み出ていた。
「田中晴人さん、ですね」
女性だった。三十代半ば、紺のスーツ、髪を後ろでまとめている。目の下に薄いクマがある。最後に眠れたのはいつだろう、と思った。
「そうです」と僕は答えた。「どうぞ」
椅子を勧めると、彼女はゆっくり腰を下ろした。バッグを膝の上に置いて、両手でしっかり抱える。その動作だけで、持ってきたものがどれほど大切かわかった。
「母が、先月亡くなりました」
「お悔やみ申し上げます」
「チップのデータを、整理していただきたいんです」
僕はデスクの引き出しから端末を取り出した。「お母様のお名前と、チップのシリアルナンバーを教えていただけますか」
彼女がバッグから小さなケースを出した。中に入っていたのは、米粒ほどのチップだ。シリアルナンバーをスキャンすると、端末の画面に情報が表示される。
佐藤幸枝、享年七十一歳。記録容量:98.7%使用。総記憶数:推定四十二万件。
四十二万件。
人間の一生分だ。
「整理というのは、具体的には?」と僕は聞いた。
「削除したいんです」
「どの記憶を?」
「母が、苦しんでいた記憶を全部」
僕は端末を置いた。
記憶の削除依頼は珍しくない。死者のチップデータは遺族が管理権を持つ。悲しい記憶、恥ずかしい記憶、誰にも見せたくない記憶——そういったものを消してほしいという依頼は、週に何件も来る。
だが彼女の言い方が引っかかった。
「お母様が苦しんでいた、というのは——」
「認知症でした」と彼女は言った。「七年間。最後の三年は、私のことも分からなくなっていて」
「……そうですか」
「母は、混乱していました。何度も同じことを聞いて、怖がって、泣いて」彼女の声は揺れなかった。揺れないように、ずっと練習してきたのだろう。「その記憶を、消したいんです。母の最後の記憶が、苦しみだけじゃないように」
僕は少し考えてから言った。「確認ですが——それは、お母様のためですか? それとも、あなたのため?」
彼女が初めて、僕を正面から見た。
「……両方です」
正直な人だ、と思った。
作業は翌日から始めた。
記憶の整理は、感情タグを手がかりに行う。ニューラルチップは記憶を保存するとき、同時にその時の感情値も記録する。恐怖、悲しみ、混乱——そういったネガティブ値の高い記憶を抽出して、依頼人に確認を取りながら削除していく。
作業自体は単純だ。
ただし、僕には一つ職業病がある。
記憶を整理しながら、ついそれを「読んで」しまうのだ。
削除対象を確認するために、断片を覗く必要がある。それが理由だと自分に言い聞かせているが、本当のところは——単純に、他人の人生が好きなのだと思う。
佐藤幸枝の記憶は、鮮明だった。
年老いてから記録されたものでも、感情値の高い記憶は画質がいい。脳が「大切だ」と判断したものは、解像度が上がる仕組みになっている。
娘が初めて歩いた日。 夫を看取った夜。 縁側で飲んだ、冷えた麦茶の味。
それから——混乱の記憶。
知らない天井。 知らない女の顔。 「お母さん、私よ、分かる?」という声。
その声に、幸枝は怯えていた。
知らない人が、自分を「お母さん」と呼ぶ。毎日来て、泣いている。何者なんだろう、と彼女は思っていた。
でも——
一つだけ、異質な記憶があった。
混乱の記録の中に埋もれていた、穏やかな感情値の断片。
病室の窓から見えた夕焼け。
隣に座る、知らない女性。
そして幸枝の内側に記録された、確かな感情——
この人は、優しい人だ。
名前は分からない。娘だということも分からない。
ただ、優しい人だと思っていた。
三日目に、依頼人——佐藤さんの娘、佐藤綾子さんが確認のためにオフィスを訪れた。
「進捗はどうですか」
「順調です」と僕は言った。
それから少し迷って、付け加えた。
「一つ、確認していただきたい記憶があります」
端末を渡すと、彼女は画面を見た。
夕焼けの記憶だ。
隣に座る自分の姿が、母親の視点から映っている。名前のない女性として。
綾子さんはしばらく動かなかった。
「……これ、私ですか」
「はい。削除対象外ですが、ご確認を」
彼女の目が、画面に釘付けになっていた。
「母は、私のことを……知らないのに、優しいと思ってくれていたんですか」
「そのようです」
長い沈黙があった。
換気扇の音だけが聞こえた。
「……削除しないでください」と彼女は言った。「この記憶だけは」
「もちろんです」
彼女は端末を返しながら、小さな声で言った。「良かった」
それきり、何も言わなかった。
僕も何も言わなかった。
これ以上言葉を足したら、壊れる何かがある気がした。
依頼は五日で完了した。
報酬を受け取るとき、綾子さんが言った。「田中さんは、この仕事をずっと続けるつもりですか」
「さあ」と僕は答えた。「向いているので」
「……記憶を見て、平気なんですか。他人の人生を」
「平気ではないです」
それが正直な答えだった。
向いているというのは、平気だということじゃない。どんなに心が動いても、それを表に出さずに作業を続けられるという意味だ。僕にとってそれは才能なのか欠陥なのか、まだ判断がついていない。
彼女は少し考えてから、「そうですか」と言った。
ドアを開けて出ていく直前、振り返って、
「母が最後に見た夕焼けって、どんな色でしたか」
と聞いた。
「橙色です。少し雲があって——雲の端が、赤く染まっていました」
彼女は頷いた。
「ありがとうございました」
扉が閉まった。
一人になったオフィスで、僕は端末を開いた。
作業ログを確認するふりをしながら、本当は——あの夕焼けの記憶をもう一度、見ていた。
幸枝の目から見た、橙色の空。
隣の、名前も知らない優しい人。
それを見ながら、僕はずっと引っかかっていたことを確認した。
チップのデータには、記憶だけでなく生体ログも含まれる。心拍数、血中酸素濃度、脳波——そういった身体データも、感情値と一緒に保存されている。
あの夕焼けの記憶。
幸枝の心拍数は、穏やかだった。
でも——
脳波のパターンが、おかしかった。
認知症患者のそれではなかった。
混乱も錯乱もない、完全に覚醒した、クリアな脳波。
つまり——
佐藤幸枝は、あの瞬間。
本当は、分かっていたのかもしれない。
隣にいるのが誰なのか。
僕は端末を閉じた。
依頼は完了した。データは削除された。これ以上、僕には何もできない。
できない——のだが。
翌朝、僕のもとに新しいメッセージが届いた。
差出人は知らない名前だった。
本文はたった一行。
「あなたの記憶を、売ってほしい」

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