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「好きだった」と過去形で言う彼女の隣で、僕はまだ現在形だった


雨の匂いがした。

窓も開いていないのに、教室の中に雨の匂いがした。それが彼女のせいだと気づいたのは、ずっと後のことだ。

「ねえ、聞いてた?」

斜め前の席から、佐倉ひなたが振り返った。小麦色の肌。目じりに小さなほくろ。いつも少し不機嫌そうに見える、でも実は違う、そういう顔。

「聞いてた」

嘘だった。

僕——水瀬悠——は、彼女の後ろ姿を見ていた。肩甲骨のあたりに落ちる黒髪が、エアコンの風でゆっくり揺れていた。そっちに集中していたから、言葉の内容なんて一ミリも頭に入っていなかった。

「じゃあ何て言った?」

「……文化祭の出し物の話」

ひなたは少しだけ目を細めた。当たり、という顔。正解したのに、どこか悔しかった。

「悠ってさ、」と彼女は言った。「たまに、ちゃんと聞いてないのに聞いてるふりするよね」

「してない」

「してる」

断言だった。

僕が黙ると、ひなたは「まあいいけど」と前を向いた。その「まあいいけど」が好きだった。怒らない。追い詰めない。ただ事実を言って、手放す。そういうところが好きだった。

好きだった、という言い方は正確じゃない。

今も好きだ。ずっと好きだ。

ただそれを、言えないでいる。


三年生の六月というのは、妙に時間が歪む季節だった。

受験の足音が近づいてくるくせに、放課後はやたら長く感じる。部活を引退した僕たちは、行き場をなくしたまま教室に残って、意味のない話をした。文化祭の出し物。誰が誰を好きか。夏休みにどこへ行くか。

「佐倉って、誰か好きな人いるの」

口に出したのは、隣の席の中田だった。

悪意はない。ただの暇つぶし。でも僕の心臓は、肋骨の内側で跳ねた。

ひなたは少し考えてから、「いたよ」と言った。

過去形だった。

「いた?」と中田が食いついた。「今は?」

「今はいない」

「振られた?」

「違う」ひなたは窓の外を見た。「自分で終わらせた」

その言い方が引っかかった。振ったわけじゃない。告白して断られたわけでもない。「自分で終わらせた」という言葉の重さが、僕の中でずっと反響した。

「なんで?」

「好きでいると、しんどかったから」

それきり、話題は変わった。

僕はそのあと三十分、ひなたの横顔を見ていた。彼女は笑っていた。普通に笑っていた。けれどさっきの「しんどかったから」という言葉が、笑顔の下で静かに呼吸しているような気がした。


帰り道、ひなたと二人になった。

偶然じゃない。僕が少し引き延ばして、タイミングを合わせた。でもひなたは気づいていない、と思っていた。

「さっきの話」と僕は言った。「好きでいるとしんどい、って」

「うん」

「どういうこと?」

ひなたは少し黙った。夕方の住宅街、どこかの家から夕飯の匂いがした。

「好きになると、その人のことばっかり考えるじゃん」と彼女は言った。「LINEの既読がつくたびにドキドキして、笑ってくれたら嬉しくて、でもそれって全部、相手に支配されてる感じがして」

「支配?」

「なんか、自分じゃなくなる感じ。その人の反応で一喜一憂して、その人がいないと落ち着かなくて。それが嫌になった」

僕はその言葉を、ゆっくり飲み込んだ。

「だから終わらせたの?」

「うん。好きでいることをやめた」

「……やめられるの?」

ひなたは少し笑った。

「やめた、じゃなくて、やめることにした、かな。なんか、好きでいる自分を選ばないようにしてる、みたいな」

選ばない。

その言葉が、妙に僕の中に刺さった。


家に帰って、僕はずっと考えていた。

ひなたが「終わらせた」相手は誰なのか、とかそういうことじゃない。もっと根っこのところで、何かが引っかかっていた。

好きでいることを選ばない。

もし彼女がそういう人なら、僕が告白したとして、彼女はどうするだろう。好きになりかけたとして、しんどくなったとして、また「選ばない」ことを選ぶんじゃないか。

でもそれより先に気づいてしまったことがあった。

僕は、ひなたのことが好きだ。

そして僕は、ひなたが誰かを「好きでいることをやめた」というエピソードを聞いて、その人が自分じゃなかったことに、安堵していた。

醜い。

自分で思う。本当に醜い。

彼女が誰かを好きで、しんどくて、やめるほど追い詰められたというのに、「自分じゃなくてよかった」と思っている。

そういう人間が、好きです、と言っていいのか。


翌日、ひなたはいつも通りだった。

「おはよ」と言って、教科書をぱらぱらとめくって、授業中に小さなメモを寄越した。「今日の昼、購買行く?」というメモだった。

行く、と書いて返した。

昼休み、パンを買って、屋上の手前の踊り場に座った。ここは鍵がかかっていて屋上には出られないけど、踊り場は誰も来ない。いつからか、二人でここで昼ご飯を食べるようになっていた。

「ねえ」とひなたが言った。「昨日のこと、なんか考えてた?」

「え」

「顔に出てる」

「出てないよ」

「出てる。悠ってわかりやすい」

僕は少し黙った。

「……考えてた」

「どんな?」

正直に言うか、一瞬だけ悩んだ。

「好きでいることをやめる、ってできるのかな、って」

「できるよ」ひなたはあっさり言った。「私がやったんだから」

「でも完全に消えるわけじゃないでしょ」

ひなたはパンをひとくち食べて、少し考えた。

「消えない」と彼女は言った。「でも育てないようにはできる。水をやらなければ、花は枯れる」

「枯れたの?」

「……どうだろ」

はじめて、曖昧な答えだった。

ひなたがここまで曖昧な答えを返したのを、僕は初めて聞いた気がした。

「悠は」と彼女は言った。「誰か好きな人いるの?」

心臓が止まった。

「いる」と、口が勝手に言った。

「へえ」ひなたは窓の外を見た。「告白しないの?」

「……できない」

「なんで」

「その人に、しんどい思いをさせたくない」

沈黙が落ちた。

長い沈黙だった。エアコンの音。遠くで誰かの笑い声。

ひなたはゆっくりこちらを向いた。

その顔を見た瞬間、僕は気づいた。

何かを、決定的に間違えた気がした。

「悠」と彼女は言った。声が、いつもと少し違った。「それって」

チャイムが鳴った。

ひなたは立ち上がった。パンの袋をぐるぐると折りたたんで、「行こ」と言った。

僕も立ち上がった。

踊り場を降りながら、ずっと考えていた。

ひなたの「それって」の先に、何があったのか。

なぜ彼女の声は、あの一瞬だけ、雨の前みたいに湿っていたのか。

廊下を歩きながら、ひなたは何も言わなかった。

僕も何も言えなかった。

ただひとつだけ、確信していることがあった。

昨日まで、僕は自分だけが現在形だと思っていた。

でも今、その確信が、音もなくぐらついている。

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