死体が、喋った。
「助けてくれ」
それだけだった。音声ログの末尾、ノイズに埋もれた三文字。船医のカイン・レヴィ——俺——は、ヘッドセットを外して天井を見上げた。探索艇の鉄板が、星の冷気でじんわりと結露している。
死体は喋らない。
そんなことは、十四年間の宇宙医療で骨の髄まで知っている。
ことの始まりは、七十二時間前だ。
連合宙域評議会から緊急指令が届いた。座標コード「NX-441」——銀河外縁部、人間の入植記録がない宙域——に、遭難信号が検出されたという。発信源は旧型の緊急ビーコン。地球規格。
地球。
その単語が画面に映った瞬間、俺の胃が一度だけ、強く収縮した。
地球は百三十年前に死んだ。小惑星衝突ではない。疫病でもない。人間が、殺した。資源戦争の末に核の灰をかぶって、それで終わりだ。生き残った三億人が宇宙に逃げて、今の連合宙域を作った。歴史の教科書には「人類最大の過ち」と書いてある。俺たちはその子孫で、地球のことを話すとき、みんな少しだけ目を逸らす。
だから「地球規格のビーコン」なんて、あるはずがない。百三十年前の遺物か、あるいは——
「レヴィ医師、到着します」
操舵士のモラが短く告げた。
舷窓の外に、それが浮かんでいた。
船だった。
正確には、船だったもの、だ。全長およそ二百メートル。胴体の半分が焼け焦げて、太陽光を吸い込むように黒く変色している。艦首に刻まれた文字は、大気圏突入でもしたように溶けかけていたが、かろうじて読めた。
GENESIS-7
俺の隣で、モラが短く息を吐いた。
「ジェネシス計画……」
「知ってるのか」
「歴史の授業で。百三十五年前、地球滅亡の五年前に打ち上げられた移住船団。七隻のうち、六隻は消息不明。一隻だけが連合宙域の前身となる入植地に辿り着いた」
俺は黙って船を見た。
消息不明の、六隻。
「生体反応は?」
「……一つ」
モラの声が、わずかに揺れた。
船内は、博物館だった。
いや、墓場、という方が正確かもしれない。コールドスリープポッドが廊下の両側に整然と並んでいる。数えるのをやめたのは、三百を超えたあたりだ。ポッドの中身はすべて同じ——干からびて、縮んで、長い時間をかけて静かになったもの。
生命維持装置の電力が尽きたのだろう。百年以上前に。
俺は淡々と記録を取りながら歩いた。これが俺の仕事だ。感傷は後回し。データが先。
そういう人間になったのは、いつからだろう。
廊下の突き当たりに、一つだけ、緑色のランプが点滅しているポッドがあった。
生体反応の源。
俺はポッドの表面パネルを確認した。名前があった。
ARIA CHEN, Age 34, CHIEF PHYSICIAN
医師。
俺と、同じ職種だ。
解凍プロセスを起動する。機械音が響いて、霜が解けていく。フタが開いた。
中に、女がいた。
三十四歳。ポッドの記録通りの年齢で、百三十五年前の顔をして、目を開けた。
「——ここは」
声がかすれている。当然だ。
「助かりました」と俺は言いかけて、やめた。
何かが、おかしかった。
おかしい、とは言語化できない違和感だった。
女——アリア・チェンは、意識を取り戻してすぐに三つのことを聞いた。
他の乗組員の安否。現在地。そして、「地球は今どうなっているか」。
最後の質問に、俺は一拍遅れた。
普通、百年以上眠っていた人間が最初に聞くことか?
だが彼女の目は澄んでいた。混濁も、パニックもない。コールドスリープの覚醒直後にしては、あまりにも落ち着いている。
「地球は……」俺は慎重に言葉を選んだ。「百三十年前に、滅びました」
アリアは、瞬きをした。
「そう」
それだけだった。泣かなかった。叫ばなかった。「そう」と言って、細く息を吐いた。
その反応が、俺の胸の中で小さな棘になった。
故郷が滅んだと聞いて、「そう」?
治療室でアリアの身体検査をしながら、俺は話を引き出した。職業病だ。患者は話している間、体の力が抜ける。
「ジェネシス計画について教えてください」
「移住船団。地球の人口の一部を、他の星系に送る計画でした。でも予算が尽きて、七隻しか作れなかった」
「あなたはGENESIS-7の船医だった」
「ええ」
「他の六隻の行方は知っていますか」
アリアは少し間を置いた。
「知っています」
俺は手を止めた。
「GENESIS-1から5は、途中で引き返しました。地球に戻るために」
「なぜ」
「信号を受け取ったから」
「信号?」
「地球からの。滅亡の直前に送られてきた信号。内容は——」彼女は天井を見た。「『まだ生きている者がいる。助けに来い』というものでした」
俺の頭の中で、音声ログが再生された。
助けてくれ。
さっきまで、あれはこの船の誰かが発したものだと思っていた。
でも——
「GENESIS-6は?」俺は聞いた。「六隻目は」
「6は、別の指令を受けていました」アリアは俺を見た。「地球には戻らず、先行して入植地を確保する。その代わり、ある荷物を届けるように」
「荷物」
「私が積んでいます」
静寂が落ちた。
探索艇が、かすかに揺れた気がした。
荷物は、貨物室の奥にあった。
コンテナ一つ。縦二メートル、横一メートル。表面に貼られたラベルには、こう書かれていた。
生物サンプル——取り扱い注意——開封権限:連合宙域評議会議長のみ
俺はアリアを見た。
「百三十五年前の荷物が、なぜ今になって届けられるんですか」
「座標が、ずっと間違っていたから」アリアは静かに言った。「GENESIS-7のナビゲーターは、目的地の座標を一桁打ち間違えた。だから百年以上、正しい場所に辿り着けなかった」
俺は息を吸った。
「そのサンプルが何か、知っていますか」
「知っています」
「教えてもらえますか」
アリアは俺を見た。百三十五年前の目で。地球を知っている目で。
「地球人の、遺伝子サンプルです。滅亡前に採取した、あらゆる人種・民族・血統の。連合宙域で人類を、もう一度作り直すための材料」
俺は黙った。
「でも」とアリアは続けた。「それはタテマエです」
「……タテマエ」
「コンテナの中には、もう一つ別の層があります。私だけが知っています。私が直接積んだから」
俺は、聞いた。
「何が入っているんですか」
アリアは答える前に、コンテナに手を触れた。冷たい金属の表面を、指先でなぞるように。まるで、長い間ずっとそうしたかったように。
「百三十年前、地球で最後まで生き残った人間たちがいた」彼女は言った。「核の後でも、放射線の中でも、死ななかった人間が。変質した、と言った方が正しいかもしれない。でも——生きていた」
俺の皮膚が、粟立った。
「その人たちの、細胞サンプルです。彼女たちが変質した理由を解明できれば、人類はどんな環境でも生き延びられるようになる。それが、本当の目的でした」
俺はしばらく、何も言えなかった。
それから、一つだけ聞いた。
「今も、生きているんですか。地球に」
アリアは俺を見た。
答えなかった。
答えない、ということが、答えだった——と、俺はそのとき思った。
帰還の準備を始めながら、俺は音声ログを再生した。
助けてくれ。
声の主は、この船の誰かではなかった。ビーコンと一緒に受信していた、別の信号だった。発信元の座標を確認すると、それはNX-441から遥か彼方——太陽系があった方角を向いていた。
俺は報告書を書き始めた。
書きながら、ある違和感に気づいた。
アリアは覚醒直後、「他の乗組員の安否」を聞いた。
だが彼女は船医だ。廊下を歩けば、全員が死んでいることはすぐにわかる。コールドスリープポッドの状態を見れば、電力喪失の時期も推定できる。
なぜ、知っているはずのことを聞いた?
俺は考えた。
アリアが最後に眠りについたのは、いつだ?
ポッドの記録では「出発直後」となっている。
だが彼女の足の裏には、歩き回った痕跡のような、古い皮膚の硬化があった。コールドスリープ前から存在したにしては、不自然な場所に。
俺は治療室の記録を開いた。身体検査のデータ。
骨密度。筋肉量。細胞の酸化度。
数値を見て、俺は画面から目を離せなくなった。
これは、百三十五年間眠っていた人間の数値じゃない。
これは——もっと最近まで、動いていた人間の——
通信機が鳴った。連合評議会からだ。
「レヴィ医師、GENESIS-7を発見したとの報告を受けました。生存者は?」
「一名。女性。船医です」
「了解。そのサンプルコンテナについて——貴方は内容を確認しましたか」
俺は少し間を置いた。
「いいえ。開封権限がないので」
「賢明です」評議会のオペレーターの声は、淡々としていた。「レヴィ医師、一つ確認です。生存者に、ある情報を話しましたか。我々が百年前にも別の探索船をNX-441付近に派遣していた、という事実を」
俺は、息を止めた。
「……いいえ」
「よかった。では帰還してください。生存者ともども」
通信が切れた。
俺は椅子に座ったまま、動けなかった。
百年前の探索船。
評議会は、この船の存在を、知っていた?
ドアが開いた。アリアが立っていた。
俺の顔を見て、彼女は静かに言った。
「気づきましたか」
それだけ言って、廊下に消えた。
俺は立ち上がった。追いかけながら、頭の中で全部並べ直そうとした。
おかしいことが、最初からあった。
アリアが目覚めたとき——ポッドのランプはずっと、点滅していた。
点滅、は「作動中」のサインじゃない。
「警告」のサインだ。

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