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君が笑うから、僕は嘘をつく


母の料理は、ずっと美味しかった。

それは本当のことだ。だから厄介だった。

冷凍食品を皿に盛り付けても、コンビニのおにぎりを「作ったの」と言って出してきても、僕は「美味しい」と言い続けた。嘘じゃなかった。そもそも料理の味なんてどうでもよかったから。

問題は、母が笑うことだった。

「よかった。ちゃんと食べてくれて」

その笑顔のために、僕は何でもできた。十六年間、そうやって生きてきた。


父が出て行ったのは、僕が小学二年生のときだ。

記憶はほとんどない。背の高い人だったこと、タバコのにおいがしたこと、ある朝から靴がなくなっていたこと。それだけだ。泣いた記憶もない。たぶん、何が起きたのかよくわかっていなかった。

母は泣かなかった。

「大丈夫。二人でやっていけるよ」

そう言って、僕の頭を撫でた。手が少し震えていたけど、気づかないふりをした。あのときから、たぶんもう始まっていたんだと思う。僕たちの、ずれた会話が。


高校二年の秋、担任の佐々木先生に呼ばれた。

進路の話だった。

「柴田、お前成績いいんだから、もう少し上狙えるぞ。県外の国立とか、考えてみたか?」

先生は善意で言っていた。それはわかった。机の上に広げた大学のパンフレット、赤で丸をつけた大学名、全部が親切心の産物だった。

「地元で考えてます」

「なんで?お前の点数なら余裕だろ」

「家の事情があって」

先生は少し黙った。父親がいないことは、たぶん知っていた。

「お母さん、なんか言ってるのか?」

「いえ」

「じゃあ、一回ちゃんと話してみろよ。親って、子供が思ってるより強いぞ」

僕は「はい」と言って、パンフレットを一枚だけもらった。東京の大学だった。家に帰って、すぐに捨てた。

母には話さなかった。

話す意味がないとわかっていたから、ではなく——話したら、母が「行っていい」と言うとわかっていたから。


母はスーパーのレジでパートをしている。

週五日、朝九時から夕方五時まで。時給は九百八十円だと、去年こっそり給与明細を見て知った。教えてくれなかった。「十分やっていけてるから心配しないで」と言うから。

十分なわけがなかった。

僕の学費、教材費、部活の遠征費。全部どこから出ているのか、考えれば考えるほど怖かった。だから考えないようにした。代わりに、バイトを始めた。

「お小遣い稼ぎたいだけ」と母には言った。

母は「無理しないでね」と言った。

僕たちはいつも、そうやって本当のことを言わなかった。


同じクラスの村田が東京の美大を目指していると知ったのは、文化祭の準備中だった。

村田は絵が上手かった。クラスの装飾を任されて、黒板に chalk art を描いていた。細い指で、迷いなく線を引いていた。

「すごいな」と僕は言った。

「ありがと。でも親には反対されてる」と村田は言って、笑った。笑い方が少し歪んでいた。「美大なんか行って何になる、みたいな」

「それでも目指すの?」

「うん」村田は迷わず答えた。「親を説得するより、受かってから考えようと思って」

僕はその答えが羨ましかった。

反対されることを前提にして、それでも動ける人間が、羨ましかった。

僕には、反対する親がいなかった。母は何でも「あなたが決めたなら」と言う。その優しさが、一番重かった。


十一月に、母が体調を崩した。

大したことじゃないと言った。風邪だと言った。でも三日仕事を休んで、四日目に這うように出かけていくのを、僕は見ていた。

「休んでていいよ」と僕は言った。

「大丈夫、慣れてるから」と母は言った。

玄関で靴を履く母の背中を見ながら、僕は何も言えなかった。送り出して、ドアが閉まってから、ダイニングに戻って椅子に座って、しばらく動けなかった。

テーブルの上に、母が朝作っておいてくれたおにぎりが二つあった。

ラップに包まれた、少し歪な形のおにぎり。

僕はそれを見て、ようやくわかった気がした。母も、嘘をついているんだ、と。

「大丈夫」というのは母の嘘で、「美味しい」というのは僕の嘘で、僕たちはずっと、お互いを守るために嘘をつき続けていた。

それが愛情なのかもしれなかった。でも、それが正しいのかどうか、わからなかった。


夜、母が帰ってきた。

顔色が悪かった。それでも「今日は何食べたい?」と聞いてきた。

「作らなくていいよ、コンビニで買ってくる」

「ううん、作る。たいしたものじゃないけど」

「いいって」

「作りたいの」

母の声が少し強くなった。

僕は黙った。

母はエプロンをつけて、冷蔵庫を開けた。たまごと、残り物の野菜と、豆腐。それだけを取り出して、ぼんやり眺めていた。

「……お母さん」

「なに?」

「大学、東京のところも、一応調べてみようと思う」

沈黙が落ちた。

母は冷蔵庫のドアを閉めた。ゆっくりと、こちらを振り返った。

「……そう」

「うん。先生に言われてさ」

「そっか」

母の表情が、一瞬だけ崩れた。泣くのかと思った。でも泣かなかった。かわりに、また冷蔵庫を開けた。

「たまご、三個でいい?」

「うん」

「炒め物にしようか」

「うん」

それだけだった。

東京の話も、お金の話も、体調の話も、何も続かなかった。でも何かが、少しだけ変わった気がした。小さな針が、ほんの少し動いたような。

フライパンの音が、台所に響いた。

母の背中は小さかった。でもエプロンの紐をきつく結んで、迷いなく卵を割っていた。その横顔を、僕はダイニングから見ていた。

何か言いたいことがあった。

でもまだ、言葉が見つからなかった。


その夜、布団の中でスマートフォンを開いた。

捨てたはずの東京の大学名を、検索窓に打ち込んだ。

出願締め切りまで、あと四ヶ月あった。

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