あの人が傘を忘れた日から、ずっとこうなっている気がする。
職場の給湯室で、コーヒーを淹れるふりをしながら、私はまた奥田さんの背中を盗み見していた。背が高いわけじゃない。顔がとびきりいいわけでもない。でも、なんでだろう。あの人がフロアを横切るたびに、視線が勝手にそっちへ引っ張られる。
磁石みたいで、我ながら嫌になる。
「七瀬さん、コーヒー、もう三杯目じゃないですか」
声をかけてきたのは隣の席の宮本くんだった。新卒二年目の、要らないことをよく言う後輩だ。
「いいでしょ、別に」
「胃、大丈夫ですか」
「大丈夫」
大丈夫じゃないのは胃じゃなくて心臓なんだけど、それは言わない。
奥田さんと話すようになったのは、去年の十一月だった。
残業帰りのエレベーターで、ふたりきりになって、「雨、降ってますね」と言ったら「傘、ないんですよね」と返ってきた。なぜかそのまま一緒にコンビニへ走って、彼がビニール傘を買うのを隣で待っていた。特に理由もなかったけど、なんとなくその場を離れられなかった。
「ありがとうございます、付き合ってもらって」
「いや、私も傘あったし」
「じゃあなんで走ったんですか」と笑われた。
なんで走ったんだろう。今でもよくわからない。でも、あの夜コンビニの軒下で、雨粒の跳ねる音を聞きながら、この人のことが好きだと気づいた。静かに、じわりと、お湯に溶ける砂糖みたいに。
問題は、私が奥田さんに対してひどく不器用だということだ。
廊下でばったり会うと、なぜかそっけない顔をしてしまう。話しかけられたら普通に返せるのに、自分から声をかけることがほぼできない。好きな人には冷たくなるタイプ、小学生か私は、と何度自分にツッコんだかわからない。
宮本くんには「奥田さんのこと、苦手なんですか?」と一度聞かれたことがある。
「苦手じゃない」
「でもいつも素っ気なくないですか」
「そういうキャラなの」
違う。全然違う。本当は朝「おはようございます」って言うたびに頭の中で「おはようございます!!」って五回繰り返してるくらい嬉しい。でもそれを顔に出す方法を、私は知らない。
今日の昼休み、事件は起きた。
社内の自販機の前で、奥田さんと二人になった。珍しく人が少なくて、フロアには私たちしかいなかった。奥田さんはミルクティーのボタンを押して、私はカフェオレを選んだ。ガタンと落ちてくる音がやたら大きく聞こえた。
「七瀬さんって、甘いもの派なんですね」
「え、あ、はい」
「意外」
「そうですか」
会話が途切れた。五秒くらい、たぶん私には五時間くらいに感じられた沈黙。私はカフェオレを持ったまま、早く席に戻らなきゃと思っていた。思っていたのに。
「あの」
奥田さんが、口を開いた。
「今日の定例会議、七瀬さんの資料、すごくわかりやすかったです」
「……え?」
「いつも思ってたんですけど。説明がきれいで、読んでて気持ちいい資料作るなって」
心臓が、変な音を立てた。
気の利いた返しをしようとした。「ありがとうございます」だけでも十分だったのに、なぜか私の口から出たのは、
「……宮本くんに確認してもらってるので」
だった。
奥田さんは一瞬きょとんとして、それからくすっと笑った。
「宮本くん、そういう役割してるんですね」
「なんか、言いすぎとか多くてって言うので……」
「七瀬さんって、そういうとこありますよね」
「そういうとこ、って」
「自分を下げる方向に使う、言葉」
急に核心を突かれた気がして、私はカフェオレの缶を両手で握り直した。見透かされた、と思った。恥ずかしいような、なんか悔しいような。
「別に、そういうわけじゃ」
「いや、いいと思いますよ。直さなくていい」
「……褒めてるんですか、それ」
「褒めてます」
即答だった。
私は下を向いた。顔が熱い。自販機の前で顔が赤くなっている三十手前の女、絵面が最悪だ。
午後の業務は、まるで頭に入ってこなかった。
「褒めてます」の四文字が、ずっと頭の中でリピートされていた。なんであんなにあっさり言えるんだろう。私だったら絶対もごもごする。
定時になって、宮本くんが「お疲れ様でしたー」と軽やかに帰っていく。私はまだパソコンの前にいた。特に残業があるわけじゃないのに、なんとなく立てなかった。
フロアが静かになってきた頃、
「まだいたんですか」
また奥田さんだった。
コートを持って、もう帰る気満々の格好で、こっちに歩いてくる。
「資料の修正、ちょっとあって」
「手伝いましょうか」
「いいです、大したことないので」
「……七瀬さんって」
「なんですか」
「断るのが早い」
図星すぎて何も言えなかった。
奥田さんは私の隣の席の椅子を引いて、当然のように座った。別に許可した覚えはない。でも、止める言葉も出てこなかった。
「どこ直してるんですか」
「……ここの図の、配置が気になって」
「ああ、確かに。こっちに寄せた方が見やすいかも」
肩が近い。三十センチくらい、いや二十センチか。コートの生地の、かすかな柔軟剤の匂いがした。
いつもは広いフロアの、どこか遠い場所にいる人が、今は画面を一緒に見ている。
おかしいな、と思った。距離って、こんなに急に縮まることがあるんだ。
修正は十五分ほどで終わった。
「ありがとうございました」
「大したことしてないですよ」
「いや、助かりました」
ちゃんとお礼が言えた。自分でも少し驚いた。
エレベーターまで同じ方向だった。並んで廊下を歩いて、ボタンを押して、扉が開くのを待った。去年の十一月みたいに、また二人きりになった。
「傘、今日は持ってます?」と聞いたら、「持ってます」と笑われた。
「この前のやつ、まだ使ってますよ」
「コンビニのビニール傘、まだあるんですか」
「丈夫なんですよ、意外と」
エレベーターの扉が開いた。乗り込んで、一階のボタンを押した。
奥田さんが、ふと横を向いた。
「七瀬さん、今度、昼ご飯、一緒に行きませんか」
心臓が跳ねた。
ちゃんと聞こえていた。でも、頭が一周遅れで処理している。
「……昼ご飯」
「ダメですか」
扉が開いた。一階だった。
私はエントランスに踏み出しながら、「……考えます」とだけ言った。
奥田さんは何も言わなかった。でも、なんとなく後ろで笑っている気配がした。
外に出ると、空気が冷たかった。十一月の夜みたいな匂いがした。
考えます、じゃなくて、行きます、って言えばよかった。
わかってる。わかってるけど、それがなかなかできないのが、私なんだよな。
でも今日は、少しだけ、前より近くなった気がした。

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