妹が帰ってきたのは、夜の十時を過ぎた頃だった。
玄関の鍵が開く音がして、僕はソファから腰を浮かせた。リビングのテーブルには、すっかり冷めたパスタが二人分並んでいる。
「おかえり」
「……ただいま」
声が低い。
靴を脱ぐ音も、いつもより乱暴だ。桜——二つ下の妹——は、リビングに入ってくるなりスマホをテーブルに叩きつけるように置いて、椅子を引いた。
「冷めちゃったけど、食べる?」
「食べる」
目は合わない。
僕は何も聞かず、電子レンジにパスタを入れた。チンという音が妙に大きく響く。皿を置いてやっても、桜はフォークを持ったまま動かなかった。
「……なに、それ」
桜が言う。
「なにが」
「ご飯、なんで二人分あるの」
「一人で食べるの寂しかったから」
嘘だ。
八時頃から桜のLINEが既読にならなくて、なんとなく心配で、なんとなく待っていた。それだけのことだ。
桜はしばらく黙って、フォークを動かし始めた。
桜は今年、大学三年生になった。
就活が始まると聞いて、春頃から少し顔つきが変わった気がする。前は些細なことで笑っていたのに、最近は笑うタイミングを考えているような、そんな間がある。
僕は社会人四年目で、同じマンションの別の部屋に住んでいる。親の勧めで、というより半分は成り行きでそうなった。桜が上京するとき、「近くにいてあげて」と母親に頼まれたのが始まりだ。
正直、最初は面倒だと思っていた。
でも今は、まあ、悪くない。
「就活のこと?」
僕が聞くと、桜は「違う」と言った。
少し間があって、「友達のこと」と小さく付け足した。
僕はコーヒーを淹れながら待った。
「なんか、ずっと仲良かった子がいて。でもここ最近、なんか変なんだよね。グループのLINEも既読スルーされるし、遊びに誘っても予定があるって断られるし」
「それは……」
「いや、わかってる。あの子が悪いとか言いたいわけじゃないし、あたしもなんか至らないとこあったんだと思う。でも」
桜がフォークを置いた。
「なんか、すごく、怖い」
その「怖い」が、僕の胸に刺さった。
大学生の女の子が、夜に一人で「怖い」と言う。それがどれだけ本音かわかった気がして、僕はコーヒーカップを持ったまま、何も言えなかった。
桜が「お兄ちゃん」と呼ぶようになったのは、いつ頃からだろう。
小さい頃は「こうちゃん」だった。航——僕の名前——が言いにくかったのか、ずっとそう呼んでいたのが、中学に上がる頃に急に「お兄ちゃん」に変わった。
聞いたことがある。「なんで急に変えたの」と。
桜は「なんとなく」と答えた。
今思えば、あの頃の桜なりの、距離の取り方だったのかもしれない。思春期の妹が「こうちゃん」と呼ぶのは、どこか幼すぎると思ったのかもしれない。
でも僕は正直、「こうちゃん」の方が好きだった。
「ねえ」
桜がコーヒーカップを両手で包みながら言った。
「その友達に、なんか言ってあげたほうがいいのかな。『最近どうしたの』とか、LINEとか」
「どうしたいの、桜は」
「……それが、わかんないんだよね」
桜が眉を寄せる。
「仲直りしたいのか、それとも自然に離れてくのを受け入れたほうがいいのか。どっちが正解かわかんなくて」
「正解はないんじゃない」
桜が顔を上げた。
「人間関係に正解を求めると、しんどくなるよ。どうしたいか、じゃなくて、どうするのが正しいかを考え始めると、ずっと答えが出ない」
桜はしばらく考えてから、「……そっか」と言った。
「でも、それって難しいよ」
「難しいよ」
僕も即答した。桜が少しだけ笑った。久しぶりに見た顔だった。
その夜、桜は結局一時間近く話していった。
友達のこと、就活のこと、最近気になっているカフェのこと、バイトの話。話題がぽんぽん跳んで、気づいたら僕も笑っていた。
帰り際、桜は玄関で靴を履きながら言った。
「ねえ、こうちゃん」
僕は一瞬、固まった。
桜は気づいていないのか、続けた。
「今日ご飯作っといてくれてありがとう。冷めてたけど、おいしかった」
「……どういたしまして」
扉が閉まる。
僕はしばらく、玄関に立ったまま動けなかった。
こうちゃん。
何年ぶりに聞いたんだろう。無意識だったのか、わざとだったのか、桜には聞けなかった。
翌朝、スマホにLINEが来た。
桜からだ。
開くと、一言だけ書いてあった。
「ねえ。お兄ちゃんって呼ぶの、もうやめていい?」
僕はしばらく画面を見つめて、それからゆっくりと返事を打った。
でも、送信ボタンを押すまでの間、なんだか胸のあたりがざわざわして、うまく言葉が決まらなかった。

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