図書館の三番テーブルは、いつも僕の指定席だった。
正確には「指定席」なんて大げさなものじゃなくて、ただの習慣だ。窓際から二番目、左奥の席。午後になると西日が棚の影に隠れて、ちょうど本が読みやすい角度になる。そこに毎日十六時ごろ来て、閉館の十九時まで過ごす。それだけのこと。
ただ、先週から、その「いつも」が少し変わった。
最初に気づいたのは月曜日だった。
いつもの席に向かうと、隣の椅子——僕の左側——に見慣れない人物が座っていた。正確には「座っていた」というより「折りたたまれていた」と言いたくなるような姿勢で。大きな体を丸めて、文庫本に顔を近づけて、眉間にしわを寄せている。
背が高い。それが第一印象だった。
次に、眉間のしわが似合わない、と思った。整った顔なのに、険しい表情のせいで損をしている。
僕は静かに自分の席に滑り込んで、リュックから参考書を出した。大学三年の後期、就活の気配がじわじわ近づいてきていて、図書館に来るのは半分逃避みたいなものだ。ここにいれば、何かに追われている感じが少し薄れる。
隣の人は、ページをめくる気配がなかった。
しばらくして、こらえきれずにそっと横を見ると、同じページを見つめたまま固まっていた。読んでいるのではなく、悩んでいる顔だった。
何を悩んでいるんだろう、と思ったけれど、当然聞けるわけもなくて、僕は参考書に視線を戻した。
火曜日も、その人はいた。
同じ席、同じ姿勢、同じ険しい眉間。ただ、今日は違う本を持っていた。昨日の文庫本より分厚い、専門書みたいな本。でもやっぱり、ページをめくる気配があまりない。
気になってしまう自分が少し嫌だった。
僕は人に興味を持つタイプじゃない。正確には、持ちたくないタイプだ。興味を持つと、何かしたくなる。何かしようとすると、失敗する可能性が生まれる。だから最初から関わらない方がいい、とずっとそう決めていた。
十七時過ぎ、司書さんがカートを押して棚の整理を始めた音が響いた。
その瞬間、隣の人がぽつりと言った。
「……わかんね」
独り言だった。明らかに。僕に向けた言葉じゃない。
でも、思わず顔を上げてしまった。
向こうも気づいて、目が合った。近い。思ったより近かった。
「あ、すいません、独り言です」
低い声で、少し早口で、そう言った。耳まで赤くなっていた。
僕は何も言えなくて、ただ小さく頷いた。
向こうはそのまま本に視線を戻したけれど、耳の赤さはしばらく消えなかった。
何故かそれが、ずっと頭から離れなかった。
水曜日、その人は来なかった。
僕は十六時に来て、参考書を開いて、なんとなく左側が広いなと思った。
思っただけだ。別に何も感じていない。
——たぶん。
木曜日、また来た。
今度はノートも広げていて、何かを書きながら、また眉間にしわを寄せていた。ノートの端に小さく「意味わかんない」と書いてあるのが、角度的に見えてしまった。
思わず、口が動いた。
「何の本ですか」
自分でも驚いた。声に出すつもりじゃなかった。
向こうも驚いた顔をして、本の表紙を見せてくれた。『認知言語学入門』とあった。
「専攻なんですか」と聞いたら、「違います」と返ってきた。
「じゃあなんで」
「……読んでみたかっただけです」
また少し耳が赤くなった。「読んでみたかっただけ」で難解な専門書に挑む人間がいるんだ、と思った。
「面白いですか」
「全然わかりません」
きっぱりした返答に、笑ってしまった。図書館だから声には出さなかったけど、たぶん顔には出ていた。
向こうも、少し表情が緩んだ。
「笑うなよ」と小声で言って、でも怒っている感じじゃなかった。
「すみません」と言いながら、全然すみません、とは思っていなかった。
金曜日、名前を教え合った。
正確には、向こうが先に名乗った。
「俺、篠崎遥人。二年」
一個下だった。なのにこんなに背が高いのか、と謎に納得した。
「僕は、橘颯。三年です」
「敬語いらないよ。年上に気ぃ遣うタイプじゃないし」
「じゃあ、遥人」
呼んでから、少し恥ずかしかった。初対面に近いのに名前呼びは早いかな、と。
でも遥人は特に気にしていないようで、「颯ね」とあっさり返してきた。
その後、一時間くらい、認知言語学の話をした。僕も詳しくはないけれど、言語系のゼミをとっていたことがあって、少しだけ説明できた。遥人は最初は斜に構えて聞いていたのに、途中から前のめりになって、メモを取り始めた。
没頭するとき、眉間のしわが消えることを知った。
閉館のアナウンスが流れたとき、「もっと教えてほしいんだけど、明日も来る?」と聞かれた。
僕は「来る」と答えた。
——本当は土曜日は来ない日だったけど、なんとなく、そのことは言わなかった。
土曜日、遥人は先に来ていた。
三番テーブルの、僕の左隣に座って、また分厚い本を睨んでいた。
僕が来たことに気づいて、表情が少しだけ和らいだ。「来たじゃん」と言った。来ると言ったでしょ、と思ったけど、何故か言い返す気になれなかった。
二時間ほど一緒に読んで、途中でお互いにジュースを買いに行って、遥人が間違えて僕の分までリンゴジュースを買ってきて、「俺はオレンジにしたかった」と言ったら「じゃあ交換する」と返ってきて、でも結局どちらも飲みたいのを飲んで、たいした話でもないのになんとなく会話が続いた。
帰り際、出口のところで、遥人が言った。
「来週も来る?」
「来る」
「……また教えてよ」
それだけ言って、少し早足で先に行ってしまった。背中が、なんとなく照れているように見えた。
僕は自転車の鍵を出しながら、来週の月曜日を指折り数えていた。
——こういうの、なんて言うんだろう、と思いながら。
頭のどこかではもう、言葉を知っていた。
三番テーブルの左隣の席は、気づけばいつも、遥人のものになっていた。

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