目が覚めたら、知らない天井があった。
いや、正確には「知らない」とは言いきれない。どこかで見たことがある、という感覚。白くて、古びた木の梁が斜めに走っていて、小さな窓から差し込む光が埃をきらきら光らせている。
――そうだ。ここ、見たことある。
僕は上半身を起こして、あたりを見回した。
木の床。藁のにおい。窓の外には見渡す限りの麦畑。
「……嘘だろ」
声を出したら、思ったより低かった。
慌てて自分の手を見る。大きくて、日焼けして、指の関節にタコがある。僕の手じゃない。というか僕、去年まで中学生で、こんな農作業してたことなんて一度もないのに。
頭の中が、ぐるぐるする。
最後に覚えているのは、自分の部屋でヘッドフォンをつけて、例の音声ドラマを聞いていたこと。『蒼穹の剣士クレイン』シリーズの最新話。五年間追いかけてきた、僕の人生で一番好きな作品。主人公クレインの声を担当しているのは、新進気鋭の声優、朝比奈悠斗。
その声が、好きで好きでたまらなくて。
聞きながら寝落ちした、はずだった。
「クレイン。起きてるのか?」
扉の向こうから、声がした。
聞いた瞬間、背骨が凍りついた。
その声を、僕は知っている。五年間、ずっと聞き続けてきた声だ。落ち着いた低音で、でも笑うと少しだけ上ずる、あの声。
朝比奈悠斗の声。
扉が開いて、男が入ってきた。
濃い青の外套。腰に剣。癖のある黒髪。そして、少し疲れたような、でも優しい目。
「……レイン?」
思わず呟いたら、彼は片眉を上げた。
「何だその顔は。熱でもあるのか」
彼が歩み寄ってきて、ためらいなく僕の額に手を当てる。ひんやりした指先。剣を握り続けてきたような、固い手のひら。
これは夢だ、と思った。夢じゃなければおかしい。だって目の前にいるのは、二次元の、架空の剣士で、声だけが朝比奈悠斗で、そして僕は自分の体じゃないところにいて――
「熱はなさそうだな。昨日の夜、また無茶な訓練をしていただろう」
少し呆れたような、でも咎める気のない声。
その口調で、頭の中の霧が、すとん、と晴れた。
僕は今、クレインだ。
音声ドラマの主人公、クレインの体に入っている。声を出しているのは本物の朝比奈悠斗ではなく、この世界の「レイン」という人物で、でも声は完全に同じで、僕はどうしたらいいんだ。
「クレイン?」
レインが顔を覗き込んでくる。距離が近い。近すぎる。音声ドラマで何度も聞いた声が、今は物理的にすぐ目の前から来ていて、僕の心拍数が変なことになっている。
「あ、いや、大丈夫」
とっさにそう言ったら、レインは小さく息をついた。
「大丈夫って顔じゃないぞ」
「……そう、か?」
「ああ。まあ、今日の訓練は休んでいい。どうせお前一人でも困らないくらい、強くなったんだから」
そう言って、彼は立ち上がろうとした。
「待って」
気がついたら、僕は声に出していた。
レインが振り返る。少し意外そうな顔。
クレインは、ドラマの設定では、あまり人に「待って」と言わないキャラだ。必要以上に人を引き止めない、一匹狼タイプ。だから今の一言で、レインが「おや?」という顔をしているのが、なんとなくわかる。
「……なんだ?」
「えっと」
何を言えばいいのかわからなくて、口ごもった。
レインが待っている。急かさずに、ただじっと待っている。
それが、ドラマの通りで。レインというキャラクターは、相手が話すまでどこまでも待てる人で、だから孤独なクレインが唯一心を開く相手で、ファンの間では「この二人の関係が全て」とまで言われていて。
知ってる。全部知ってる。何年分の知識が頭にある。
でも今、それがちっとも役に立たない。
「……この世界に来たのは、初めてか?」
レインが静かに言った。
僕は固まった。
「何、を」
「隠さなくていい。目の覚め方が、違った」
彼は少し考えるように視線を落として、それから僕を見た。
「クレインの体だが、クレインじゃない。そういうことが、この世界では、たまに起きる」
知らなかった。音声ドラマにそんな設定はなかった。でもレインは淡々と続ける。
「転生者、と呼ばれる。別の場所から魂が迷い込んでくることがある。珍しくはないが、多くはない」
僕はしばらく、何も言えなかった。
ということは、この世界では「転生者」という概念が普通に存在していて、レインはそれを知っていて、そして今の僕がそれだと気づいていて。
「……怖くないのか」と、気がついたら聞いていた。「俺が、クレインじゃないって知って」
レインは少し首をかしげた。
「なぜ怖い」
「だって、クレインじゃない誰かが体を乗っ取ってるんだろ」
「乗っ取り、とは言わないだろう」
彼はさらりと言って、窓の外を見た。
「クレインは、まだここにいる。眠っているだけだ。お前が目覚めている間は、お前のものだ」
その言い方が、なんだかひどく優しくて、僕は少し、視界がぼやけた。
――泣きそうになってる。なんで。
でもわかる気がした。ずっとスピーカーの向こう側で聞いていた声が、今は同じ空気の中にあって、その人が「お前のものだ」と言っていて、それが想像よりずっと、温かかったから。
「名前は?」
レインが聞く。
「……橘、湊」
「ミナト」
彼は一度だけ、静かに繰り返した。発音が、少し違う。でもそれでよかった。
「クレインが戻るまでの間、ここにいればいい。俺が、案内する」
立ち上がった彼の背中が、朝の光を受けている。
音声ドラマで何百回と聞いた声が、今は風と一緒に流れていく。
僕はゆっくり、立ち上がった。足元がふらつく。でも、転ばなかった。
「……なあ、レイン」
「何だ」
「お前って、怒ったりするのか」
彼は一瞬だけ、きょとんとした顔をした。
それから、少しだけ笑った。
「するぞ」
「どんな時に」
「……大切なものを、粗末にされた時」
その答えが、音声ドラマのどこにもなかった言葉で。
僕は思わず、胸の奥がぎゅっとなるのを感じた。
この先に何があるのか、まだ何もわからない。どうやって帰るのかも、帰れるのかも。クレインはどこにいるのかも、この世界が音声ドラマと同じなのかも。
でも、レインが歩いている。
僕は、その後ろを追いかけていた。

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