目が覚めたとき、枕に血がついていた。
自分のものじゃない。血液型が違う。
私はO型だ。でも枕についていたのはA型だと、なぜか確信があった——確認する前から。
2047年。東京の空には常に灰色の膜が張っている。大気浄化フィルターの副作用で、太陽は白く、影は薄い。人々はARレンズ越しに”晴れた空”を見て、それを現実だと信じて生きている。
私、榊原凛、28歳。国家時間管理局の監査官。
タイムトラベルは2039年に実用化された。でも”旅行”なんて優雅なものじゃない。政府が認可した者だけが、厳格な手順のもとで過去を訪れることができる。目的はひとつ——修正。
過去の事故、テロ、天災。介入ポイントを特定し、現地に潜入し、何事もなかったように帰還する。
私はその仕事が好きだった。
過去は変えられる。それは即ち、後悔も消せるということだから。
「榊原さん、今日の案件です」
助手の水島がホログラムファイルを投影した。
《2031年9月14日、渋谷駅地下爆発事故。死者23名。介入可能時間:発生37分前》
私はファイルを一読して、異変に気づいた。
37分前。なぜそんなに幅がある?
通常、介入は5分以内だ。余裕を持たせすぎると”干渉リスク”が上がる。それが局の鉄則だった。
「水島、このマージンは誰が承認した?」
「上からです。今回は特殊案件とのことで」
特殊。その言葉が、喉に刺さった。
でも私は黙って装備を着た。
仕事だから、と自分に言い聞かせながら。
転送は一瞬だ。
意識が暗転して、次の瞬間には雑踏の中にいる。
2031年の渋谷。空気が違う。フィルターのない空は、確かに青かった。私はその色を、息を飲みながら見上げた。本物の空というのは、こんなに暴力的に青いのか。
腕時計型のデバイスが現在時刻を示す——14:23。爆発は15:00。
37分ある。
私は地下への階段を降りながら、局から渡された情報を頭の中で整理した。爆発物は改札内の遺失物ロッカーに仕掛けられている。犯人は特定済み。私の仕事は、ロッカーの管理システムに割り込んで遠隔ロックをかけるだけ。
シンプルな任務だ。
——のはずだった。
コンコースに降りたとき、私は見た。
柱の陰に、女が立っていた。
フードをかぶっている。俯いている。でも、その立ち方に見覚えがあった。右足に重心をかけて、左手を背中側に回して——
あれは私だ。
瞬時に理解した。
同じ任務に、別の私が送られている。
あり得ない。絶対にあり得ない。同一時空への複数の自己の投入は、局の最大禁忌だ。時間の”二重化”は予測不能な干渉を起こす。最悪、その時点の現実が崩壊する。
頭が熱くなった。
どういうことだ。なぜ局は——
「動かないで」
耳のすぐ後ろで、声がした。
低い声。女の声。
でも私より少し、老けていた。
振り向くと、そこにいたのも私だった。
ただし、10年分は年をとった私だ。目の下に隈。頬がこけている。でも目だけが、異様に鋭かった。
「あなたが来ることはわかってた」と未来の私は言った。「私もそうやって来たから」
「何を——」
「時間がない。あの爆発は止まらない」
「何を言って——私の任務は——」
「あなたの任務は、爆発を止めることじゃない。」
声が低くなった。
「あなたはここで、誰かを殺しに来た」
頭が、真っ白になった。
「違う。私はロッカーをハックするために——」
「局に渡されたデバイス、見せて」
反射的に腕を隠した。でも未来の私は静かに首を振った。
「私もそうした。見せたくなかった。自分が何者かを、認めたくなかったから」
強引に腕を取られた。デバイスのカバーを開けられた。
中には、ハッキングツールじゃなかった。
生体標的型の神経パルス射出装置。通称”ゴースト”。対象者の神経系に干渉し、痕跡なく停止させる。過去に使われた証拠は現代には残らない。
「これは……」
「23人を救うために、一人を殺す。局はあなたにそれをやらせようとしてる。そして、ターゲットは」
未来の私が指差した先。
柱の陰で俯いている、もう一人の私。
2031年の、28歳の私。
「私が……私を?」
「爆発の直前、あの子は気づく。ロッカーの中に人間が閉じ込められてることに。助けようとして、中に入る。そして巻き込まれる。死ぬ。」
「でもそれなら——助けたら——」
「助けたら、あの子は生きる。でも2047年の私たちが消える」
「……何で」
「あの子がそこで死なないと、局に入らない。時間管理官にならない。今日ここにいる私たちが、生まれない」
時間が歪んだような感覚があった。
「局はそれを知っていて、私を送った?」
「知っていて、何度も送った。」
未来の私の目が揺れた。初めて、感情らしいものが滲んだ。
「私はもう三回、ここに来た。三回とも、できなかった。だから私の次の私が送られてくる。でもどの私も、できない。当たり前でしょ。自分を殺せるわけがない。」
15:00まで、あと8分。
私の頭の中で、何かが音を立てて崩れた。
局は最初から知っていた。私が何をしに来ているかを。そして、私が失敗し続けることも。だから”37分”というマージンを与えた——迷うための時間を。
でも23人は、本当に死ぬ。
あの子が助けようとしなければ、爆発は起きる。23人が死ぬ。
あの子が助けようとすれば、爆発は起きる。23人と、あの子が死ぬ。
あの子を私が殺せば、爆発は起きる。23人が死ぬ。でも私たちは消えない。
どの道、23人は死ぬ。
「じゃあ何のために私たちは——」
「わからない」と未来の私は言った。「でも一つだけ、わかることがある」
彼女が私の手からデバイスを取り上げた。
「あなたは今日、引き金を引かない。それだけは決まってる。なぜなら私が、引かなかったから」
14:59。
コンコースに警報が響いた。誰かが叫んでいる——「ロッカーから声がする!」
柱の陰の私が、走り出した。
止める間もなかった。
私は走った。追いかけた。名前を呼ぼうとして、呼べなかった。自分の名前を、公共の場で叫ぶことの意味を考えてしまったから。
人が逃げていく流れに逆らいながら、私は叫んだ。
「やめろ!」
あの子が振り返った。
私の顔が、私を見た。
その瞬間に——
記憶が、ここで途切れる。
目が覚めたとき、私は転送チェアの上にいた。2047年の局の施設。いつも通りの灰色の光。
「帰還確認。榊原監査官、お疲れ様です」
水島の声。
私はゆっくり起き上がった。
頭が痛い。耳鳴りがする。
「……任務は?」
「失敗です。ご存知のように」
淡々とした声だった。驚きも、失望もない。
ご存知のように。
「水島」
「はい」
「これは何回目だ」
沈黙。
3秒。5秒。
「榊原さんが知る必要はありません」
私は立ち上がり、水島の襟元を掴んだ。
「何回だと聞いてる」
水島は、初めて表情を崩した。
哀れむような顔で、私を見た。
「今日の件、局長がお話ししたいとのことです」と彼は言った。「ただ——一つだけ、先にお伝えしておきます」
彼が差し出したのは、薄いホログラムカード。そこには一枚の写真。
2031年の渋谷駅。爆発直後の現場。
瓦礫の中に、遺体が映っていた。
23人。それともう一人。
その顔は——
「榊原さん、実はあなたは今回、初めて帰還できた監査官なんです」
水島がカードを引っ込めながら言った。
「これまでの全員は、向こうで消えていますので」
その夜、私は自室で枕を確認した。
血がついていた。
O型じゃない。
なぜ、私は血液型を確認する前から、それがA型だと知っていたのか。
局長室への呼び出しは、翌朝9時。
私はまだ、あの瞬間の記憶を思い出せない——
やめろと叫んで、あの子が振り返って、私の顔が私を見て、そして——
ドアをノックする音がした。
こんな時間に、誰が。
「榊原さん、開けてもいいですか」と声がした。
水島ではない。
女の声。
私より少し、老けた声。

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