雨の日に限って、人はほんとうのことを口にする気がする。
そう思ったのは、去年の梅雨のことだった。バス停の屋根は幅が狭くて、となりに立っていた女の人の肩が、気づいたら私の傘の骨ぎりぎりのところにあった。彼女が一歩横に避けたとき、「あ、ごめんなさい」と私が言うより先に、
「傘、さしてくれてたんですね」
と、彼女が言った。
雨だれの音が、妙にはっきり聞こえた。
彼女の名前は後日知った。同じ会社の、別の部署の人で、名前は結城梨央という。二十八歳。私より三つ上で、デザイナーとして社内の広報物をほぼひとりで仕切っている、らしい。「らしい」というのは、直接知ったわけじゃなくて、同期の樋口から聞いたからだ。
「あの人、ちょっと近づきがたいんだよね。悪い人じゃないんだけど」
と、樋口は言っていた。なんとなく、その「近づきがたい」の意味が、私にはわかる気がした。結城さんは、いつも少しだけ遠いところを見ていた。目が合っても、すぐに微笑んで視線を外す。それが冷たいんじゃなくて、慣れているみたいに見えた。人と、適切な距離を保つことに。
あのバス停の朝から、何度かエレベーターで一緒になった。ロビーで会釈した。一度だけ、給湯室で鉢合わせして、「今日も雨ですね」と私が言ったら、
「嫌いじゃないんです、雨」
と彼女は答えた。コーヒーカップを両手で持って、窓の外を見ながら。私はなんと返せばよかったのかわからなくて、「そうですか」とだけ言って、その場を離れた。
帰り道、ずっとその言葉のことを考えていた。
嫌いじゃない、じゃなくて、好き、と言わないのはなぜだろう。
◇
今日は、六月の半ばで、また雨だった。
昼休みに社内のカフェスペースで、私はサンドイッチをひとつ食べていた。窓際の席で、ぼんやりと雨粒が流れるのを見ていたら、となりに誰かが座った。顔を上げると、結城さんだった。
「隣、いいですか」
席はほかにも空いていた。でも私は「どうぞ」と言って、膝に置いていたトートバッグをずらした。
しばらく、ふたりで窓の外を見ていた。彼女はスマートフォンを見るでも、本を読むでもなく、ただ静かにコーヒーを飲んでいた。この人は、沈黙を怖いと思わないんだな、と思った。私は逆で、黙っていると何か言わなきゃと焦ってしまうたちなので、少し羨ましかった。
十分くらい経ったころ、結城さんが口を開いた。
「山田さんって、いつも昼ひとりですか」
私は、山田亜紗子という。たぶん彼女も、誰かから聞いたのだと思う。
「だいたいそうです。ひとりのほうが、ぼーっとできるので」
と答えたら、結城さんは小さく笑った。口角が少しだけ上がる、静かな笑い方だった。
「私も同じです」
と彼女は言って、またコーヒーカップに視線を落とした。
同じです。
その三文字が、思ったよりも胸の中に温かく落ちてきて、私は少し困った。困ったというか、うれしいのに、うれしいという感情をどこに置けばいいかわからなかった。
そのあと彼女は、
「バス停、あのあとも何度か、見かけました」
と言った。
「あ、そうですか」
「傘、さしてましたか」
「……雨の日はだいたいさしてます」
「私のじゃなくても?」
ふっと笑いながら言うから、私もつられて笑ってしまった。会話が、じゃれあうみたいに転がって、少し驚いた。この人、こういうことも言うんだ、と思って。
「結城さんが濡れてたら、また無意識にさしてたかもしれません」
「……おせっかいですね」
おせっかい、という言葉は、でも少しも嫌な響きがなかった。彼女の声に、なぜか柔らかいものが混じっていた気がして、私はまたどこか困った。
◇
昼休みが終わったあと、結城さんはふいに、
「今夜、雨がひどくなるって言ってたので」
と言った。立ち上がりながら、自分のカップをトレーに乗せながら。私に向けて言っているのか、独り言なのかわからない、そういう言い方だった。
「傘、ちゃんと持ってきましたか」
私は、持ってきていなかった。朝、曇り空を見て、まあいいかと思って家を出た。
「……忘れました」
「やっぱり」
と彼女は言って、また口角が上がった。
「傘、一本余ってるので。もし帰りがひどかったら、言ってください」
それだけ言って、彼女はカフェスペースを出ていった。
私はしばらく、ひとりで窓の外の雨を見ていた。
どんどん、雨粒が大きくなっている。
夕方になったら、私はどうするだろう。声をかけるだろうか。それとも、コンビニに走るだろうか。あるいは、雨が弱まるのを待つだろうか。
自分でもまだ、わからなかった。
ただ、傘を忘れてきたことを、今日初めて、よかったかもしれないと思っていた。

コメント