祖父が倒れたと知らせが来たのは、就活の最終面接を翌日に控えた夜のことだった。
スマホの画面に母の名前が光った瞬間、僕の中で何かが冷えた。出なければ、と思いながら、指が止まった。三秒。五秒。画面が暗くなる寸前に、滑るように通話ボタンを押した。
「じいちゃんが、脳梗塞で」
母の声は平坦だった。泣いていなかった。それがかえって怖かった。
「今夜、新幹線で帰れる?」
帰れる、と答えた。答えながら、頭の隅で就活サイトのログイン画面を思い浮かべていた。面接の連絡先、人事担当者の名前、当日のスーツのクリーニング。あれはいつ取りに行く予定だったか。
祖父の顔を最後に見たのは、三年前の正月だった。
あのとき、僕は二十歳で、祖父は七十八だった。石川県の小さな町に建つ古い家。縁側で日向ぼっこをしている祖父に「元気そうだね」と言って、それ以上の言葉を探せなかった。
祖父は笑っていた。
いつも笑っていた。でも、あの笑顔が何を意味していたのか、僕にはわからなかった。嬉しいのか、寂しいのか、ただ習慣で笑っているのか。読めない人だった。というより、読もうとしていなかった。
新幹線の中で、僕はずっとスマートフォンを握っていた。面接の自己PRを頭の中で反芻しながら、病院の住所を地図アプリで確認しながら。二つのことを同時にやっている自分が、どうしようもなく嫌だった。でも、やめられなかった。
病院に着いたのは、深夜一時を過ぎていた。
廊下のベンチに、母と、母の姉——叔母の道子さんが並んで座っていた。二人とも、顔が白かった。
「来てくれたの」
母が立ち上がった。僕を見て、少し驚いたような顔をした。当然来るだろう、と思いながら、その「驚き」の理由が少しわかる気がして、胸の奥がちくりとした。
「じいちゃんは?」
「意識は戻ってる。でも、右半身が動かない。言葉も、まだ」
道子さんが補足した。声が乾いていた。泣き終わったあとの声、という感じがした。
ICUのガラス越しに、祖父を見た。
管が繋がっていた。額に絆創膏が貼ってあった。眠っているのか、起きているのか、判別がつかない顔だった。でも確かに胸が上下していた。
生きている、と思った。
それだけだった。もっと何か感じなければいけない気がして、僕は自分の胸を探った。悲しみ、安堵、恐怖——何かが来るはずだった。でも、あったのは、静かで薄い、現実感のなさだけだった。
翌朝、叔母の道子さんと二人になった。
母が仮眠を取りに行った隙のことだった。道子さんはコーヒーを二つ買ってきて、一つを僕に押しつけた。
「あんた、明日面接あったんじゃないの」
驚いた。母から聞いたのか。
「……延期してもらいました」
「そう」
道子さんは窓の外を見た。朝の光が差し込んでいた。
「お父さんね」と道子さんが言った。「あんたのこと、よく話してたのよ」
知らなかった。
「孫の中で一番心配してたって。就活がうまくいくか、東京で友達できてるか、ちゃんと飯食ってるか」
「……一度も、そんなこと聞かれたことないですよ」
「あの人、直接言えないのよ。昔からそう」
道子さんが笑った。乾いた笑いだった。
「私には何でも怒鳴るくせに、孫には優しくしたくて、でも優しいつもりで喋ると何か違うって感じるのか、黙っちゃうのよ。変な人でしょ」
変な人、という言葉が妙に温かく聞こえた。
祖父が一般病棟に移ったのは、三日後だった。
意識ははっきりしていた。ただ、言葉が出てこなかった。話そうとすると、唇が震えて、違う音が出た。それを本人が一番よくわかっていて、途中で諦めるように目を閉じた。
僕は病室のパイプ椅子に座って、祖父の顔を見ていた。
何か話さなければ、と思った。でも、何を話せばいいかわからなかった。就活の話? 面接を延期したこと? 東京での生活?
結局、天気の話をした。
「今日、晴れてたよ。外、気持ちよさそう」
祖父は目を開けた。僕を見た。
うん、と言おうとしたのか、唇が動いた。音は出なかった。でも、目が細くなった。
笑っていた。
あの笑顔だった。三年前の縁側と、同じ笑顔。
何を笑っているのか、僕にはやっぱりわからなかった。嬉しいのか、寂しいのか、それとも——孫がそんなことしか言えないことを、どこかおかしいと思っているのか。
わからなかった。でも今度は、わからないことが苦しかった。
母と道子さんが、廊下で言い争っているのを聞いた。
声を抑えていたが、病室のドア越しにわかった。
介護の話だった。
「施設を考えないと」という道子さんの声と、「まだそんな話をする段階じゃない」という母の声。二人の言葉のぶつかり方に、古い傷の気配があった。昨日今日の話じゃない、もっと長い、家族だからこそ言えなかった何かが、そこにあるような気がした。
祖父はそれを聞いていた。
聞こえていたはずだった。
目を閉じて、でも眉だけがかすかに動いていた。
僕は何も言えなかった。止めに行けなかった。ただ、祖父の手の甲を、指先でそっと触れた。何の意味もない行動だったかもしれない。でも他に何もできなかった。
祖父の手は、思ったより温かかった。
四日目の夜、僕は帰ることにした。
面接の再設定をしてもらっていた。行かないわけにはいかなかった。
母に伝えると、「そうしなさい」と言われた。引き止められなかった。それが正しいのか、正しくないのか、わからなかった。
帰り際、病室に寄った。
祖父は起きていた。暗い部屋で、天井を見ていた。
「帰るね」
声に出して言ってから、自分の言葉が薄いと思った。また来るよ、とか、元気になってね、とか、何か言うべきだった気がした。でも、そういう言葉が全部、嘘みたいな気がして、出てこなかった。
祖父が僕を見た。
また唇が動いた。今度は少し長かった。何か言おうとしていた。
聞き取れなかった。
「え?」と聞き返した。
祖父は首を横に振った。
いい、というように。
また、笑った。
新幹線の中で、僕は窓の外を見ていた。
夜の田んぼが、灯りの中に浮かんで消えていった。
祖父があの瞬間、何を言おうとしたのか、考えていた。頑張れ、だったかもしれない。気をつけて、だったかもしれない。あるいは、もっと違う何か。
わからなかった。
でも、首を横に振った顔が、頭から離れなかった。
諦めたのか。伝わらなくてもいいと思ったのか。それとも——言葉じゃなくても、もうわかるだろうと思っていたのか。
スマホを開いた。面接の確認メールが届いていた。
返信しようとして、止まった。
祖父の笑顔のことを考えた。三年間、ずっと笑っていたあの顔。僕が就活のことを心配していたのに、一度も聞いてこなかった祖父。でも道子さんは言っていた。よく話してた、と。
言えない人だったのか。それとも、言わないことが、あの人なりの愛し方だったのか。
どちらでもあって、どちらでもない気がした。
僕はメールの返信を打ち始めた。
「明後日の午前10時、伺います」
送信した瞬間、また祖父の声を思った。聞き取れなかったあの音。
きっとまた会いに行く。
でも、そのとき何を話せばいいのか、まだわからなかった。

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