春って、なんでこんなに意地悪なんだろう。
桜が散るたびに思う。きれいなものを見せておいて、すぐに終わらせる。期待させておいて、あとは知らないって顔をする。
四月の最初の月曜日、僕はいつものように自転車のペダルを踏みながら、そんなことを考えていた。
高校二年生になったからといって、べつに何かが変わるわけじゃない。去年と同じ道、去年と同じ坂、去年と同じ信号待ち。ただひとつ違うのは、隣のクラスに転校生が来たという噂が、朝のホームルームも始まっていないのに校舎中に広まっていたことだ。
転校生なんて、どうせすぐ馴染んで、すぐ忘れる。
そう思いながら下駄箱でスニーカーを脱いでいたら、
「あの、すみません」
声が降ってきた。
振り返ると、女子が立っていた。背は僕より少し低くて、制服の袖をほんの少しだけ折り返していて、肩にかけた鞄のストラップを両手でぎゅっと握っていた。
「二年B組ってどっちですか」
ああ、転校生だ。
「俺、B組じゃないけど」
なんで反射的にそんなことを言ったんだろう。我ながら意味がわからない。
「あ、そうですよね、ごめんなさい」
彼女はちょっと困ったように笑った。困り笑いなのに、なぜか明るかった。
「……二組はあっち。廊下を右に曲がって」
「ありがとうございます」
それだけで、彼女は行ってしまった。
僕はしばらく、靴下のまま廊下に立っていた。
名前は、沢村芽衣というらしかった。
「超かわいくない?」と昼休みに伊達が言った。伊達は同じクラスの幼なじみで、情報収集だけは異常に速い男だ。
「どうだろ」
「どうだろじゃないって。朝から噂になってるぞ。転校早々、B組の田中に話しかけられてさらっとかわしたって」
「へえ」
「お前、なんか知ってそうな顔してるじゃん」
「してない」
「してるって」
僕はコッペパンを一口かじって黙った。知ってるというか、朝に廊下で会っただけだ。それ以上でも以下でもない。
ただ、あの困り笑いがちょっと頭に残っているのは、まあ、認める。
彼女と次に話したのは、三日後だった。
図書室で、同じ本を同時に手に伸ばした。
「あ」
「あ」
ふたりで同時に声が出て、ふたりで同時に手を引いた。
棚に戻った本のタイトルは『夜は短し歩けよ乙女』だった。
「好きなんですか、これ」と彼女が言った。
「まあ」と僕は答えた。「三回読んだ」
「私も好きで。前の学校でも借りてたんですけど、途中で引っ越しになっちゃって」
「返せたの?」
「ぎりぎり返せました。延滞料金はゼロ」
なぜかちょっと誇らしそうな顔をした。
なんというか、変な子だなと思った。悪い意味じゃなく。
「先に読んでいいよ」と僕は言った。「俺、もう内容知ってるから」
「でも三回読んだんですよね」
「うん」
「それって、本当に先に貸してくれる気ある人の言葉じゃないと思います」
正直に言う子だった。
「……じゃあじゃんけん」
「いいです」
彼女はちょっと笑って、本を棚に戻した。
「また来ます」
それで図書室を出て行ってしまった。
僕はひとり残されて、なんとなく本を手に取った。ページを開いたら、最初の一行が目に入った。そういえば、ここが好きで三回読んだんだった。
なんとなく、気分が悪くなかった。
それから、なんとなく話すようになった。
「なんとなく」というのが正確なところで、毎日話すわけじゃないし、廊下で会っても無視するときもある。向こうも別に追いかけてこない。それが不思議と気楽だった。
ある日の放課後、昇降口で雨が降っているのを一緒に眺めた。
彼女は傘を持っていなかった。僕も持っていなかった。
「止むと思います?」と彼女が言った。
「思わない」
「ですよね」
しばらく黙って雨を見ていた。
「前の学校はどうだったの」と僕は聞いた。べつに深い意味はなかった。ただ、言葉が出た。
「ふつうでした」と彼女は答えた。
「ふつう?」
「友達もいたし、楽しかったし。でも、引っ越しが決まったとき、思ったより平気でした」
「それって寂しくない?」
「寂しいのと、平気なのって、両方あってもいいんじゃないかと思って」
雨音がしばらく続いた。
「なんか、大人みたいなこと言うね」と僕は言った。
「いつもそう言われます。なんか変ですか」
「変じゃない」
正直そう思った。変じゃなかった。ただ、なんというか、距離感がよくわからない子だった。近いんだか遠いんだかが。
雨は結局、三十分くらいで止んだ。
「じゃあ」と彼女は言って、傘なしで自転車のほうへ歩いていった。
僕は傘なしで、逆の方向へ歩いた。
なぜか少し、濡れてもよかった気がした。
五月の連休明け、僕はちょっとやらかした。
授業で当てられた問題を、盛大に間違えた。しかもかなり自信満々に答えたやつを。クラスがどっと笑って、先生も困ったように笑って、僕は「あ、そうか」とだけ言って席に戻った。
恥ずかしいというか、微妙な感じがずっと残ったまま昼になった。
食堂で飯を食っていたら、隣に誰かが座った。
「さっきの授業見てました」
沢村だった。
「見てたの」
「見てました」と彼女は言った。「堂々と間違えるの、すごいと思いました」
「褒めてる?」
「褒めてます」
「どこが?」
「間違えたあと、ちゃんと『そうか』で終わらせたところ。ぐちぐちしてなかった」
僕は黙っていた。
「私、間違えたあとが長いんですよね」と彼女は続けた。「夜までひきずるタイプで」
「それはしんどそう」
「しんどいんです、ほんとに」
ちょっと笑いながら言った。
なんで今日ここに来たんだろうと思ったけど、悪い気はしなかった。むしろ、食堂がいつもより静かに感じた。いや、静かなわけじゃないんだけど。
「あの本、読んだ?」と僕は聞いた。
「読みました。三周する気持ち、わかりました」
「でしょ」
「でも一回目のほうが好きかもしれない」
「それはそう」
「なんで三回読んだんですか」
「忘れたくなかったから」
答えてから、ちょっと恥ずかしかった。
「それ、素直な人の言葉だ」と彼女が言った。
「そう?」
「そうです」
また少し黙って、ふたりで食堂のざわめきの中にいた。
距離が、なんとなく縮んだ気がした。席が隣なだけで、物理的には何も変わっていないのに。
放課後、教室に忘れ物を取りに戻ったら、彼女がひとりで窓際に立っていた。
「何してんの」
「夕焼け見てました」
「なんで」
「きれいだったから」
窓の外を見ると、確かに夕焼けがきれいだった。オレンジと薄紫が混ざって、校庭の桜の木の輪郭をぼんやりと縁取っていた。
「転校してきて、どう?」と僕は聞いた。
「どう、って?」
「慣れた?」
「まあまあです」と彼女は言った。「クラスはわりと大丈夫で。でも」
少し間があった。
「図書室の本の場所が、前の学校と全然違う」
「そっちが大事?」
「大事ですよ」と彼女は言って、窓のほうを向いたまま笑った。
横顔だったから、全部は見えなかった。でも、なんか笑った気がした。
「最初に会ったとき、道教えてくれましたよね」
「うん」
「ありがとうございました、ちゃんと言ってなかった気がして」
「言ってたよ」
「そうでしたっけ」
「言ってた」
また少し沈黙があって、夕焼けが少しずつ濃くなっていった。
言わなくてもよかったことを、なぜか言いたくなった。
「また雨降りそうだったら言って」と僕は言った。「傘、二本持ってくるから」
彼女がこっちを向いた。
「それって」
「べつに、ただの話」
「……ただの話ですか」
「そう」
嘘だった。
彼女はしばらく僕を見て、それからまた窓の外を見た。
「わかりました」と彼女は言った。「でも私、天気予報よく外します」
「だよね」
「なんでわかるんですか」
「なんとなく」
夕焼けが少し笑っているみたいに、ゆっくりと色を変えていった。
僕はまだ、自分の気持ちに名前をつけていない。つけたら何かが変わる気がして、今はまだ、このままでいいかなと思っていた。
ただ、明日も晴れるといいと思った。
そして、雨でもいいかもと思った。

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