雨の日は、なんとなく気持ちがやわらかくなる。
そう気づいたのは、彼女と相合い傘をするようになってからのことだ。
大学二年の春、私はまだ彼女の名前を正しく呼べていなかった。
図書館の帰り道だった。
空がいきなり機嫌を変えて、ざあっと雨を落としてきたのは。私は傘を持っていなくて、軒下でスマホを眺めながら「あと何分でやむか」を調べていた。答えは「三時間以上」。最悪だ、と思った瞬間、隣に誰かが立った。
「雨、すごいね」
振り向いたら、同じゼミの水瀬莉子がいた。
ちょっと待って、と私は内心でうろたえた。水瀬さんは、いわゆるちゃんとしている人だ。ゼミの発表はいつも準備が完璧で、ノートの文字はきれいで、なのに嫌みがなくて、誰からも好かれている。私みたいに「発表前日に資料を全部作り直す」タイプとは、明らかに違う種類の人間だと思っていた。
「傘、持ってないの?」
「……持ってきてなくて」
「じゃあ、一緒に入る?」
さらりと言った。
私が「え、でも悪いし」とうじうじしている間に、彼女はもう傘を開いていた。水色の、小さめの傘を。
並んで歩き出すと、すぐに気づいた。
傘が、小さい。
水瀬さんは私より少し背が低くて、傘を持つのは彼女だから、角度の関係で私の右肩がじわじわ濡れていく。気にしないようにしていたけれど、三分も歩いたころ、彼女が傘を持つ手をそっとこちらに傾けた。
雨が、私の上に移ってくる。
「あ、でも水瀬さんが濡れる」
「うん、少し」
あっさり答えて、彼女は前を向いたまま歩き続けた。
私は何も言えなくなった。
なんというか、そういう人なのだ、水瀬莉子という人は。大げさにしない。見返りを期待するそぶりもない。ただ、少し傘を傾けた。それだけのことなのに、胸の奥が妙な音を立てた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
横顔が、ちょっとだけ笑った気がした。雨音のせいで、よく聞こえなかった。
それからだ。
なぜか水瀬さんと、よく帰り道が一緒になった。
別に示し合わせたわけでもない。ただ、ゼミが終わったあとに廊下で鉢合わせて、「帰り?」「うん」とだけ言って、なんとなく並んで歩く。それが週に一度、二度になった。
私は彼女のことをまだよくわかっていなかった。好きな食べ物も、出身地も、なぜいつもノートをオレンジのペンでチェックするのかも。わかっていたのは、彼女の歩くペースがゆっくりで、私が合わせるとちょうどいい、ということくらいだった。
ある日、私がゼミの課題について愚痴った。
「先生の指定図書、読んでも全然意味がわからなくて。私、理解力がないのかな」
「そうかな」水瀬さんは少し考えてから言った。「私も最初、三回読んで諦めたよ」
「え、水瀬さんが?」
「うん。で、先生に直接聞きに行った」
私の中の「水瀬莉子像」が、音を立てて揺れた。
完璧にこなしているのだと思っていた。最初からするすると理解して、整然とノートを埋めていくような人だと。でも三回読んで諦めたことがあって、先生のところに直接乗り込んでいったらしい。
「そっか……私、わからなくても聞きに行く勇気がなくて」
「わかる」彼女は静かに言った。「聞きに行くまでが一番疲れるよね」
その「わかる」が、じんわり染みた。
慰めじゃなくて、共感だった。私が感じていたあの「扉を開けるまでの重さ」を、彼女も知っていた。
先週、また雨が降った。
今度は私が傘を持っていた。水瀬さんが持っていなかった。
だから当然のように、私は傘を差し出した。
「一緒に入る?」
彼女は少し目を丸くして、それから「ありがとう」と言った。
あのとき彼女が私にしてくれたのと、同じ言葉だ。でも私の胸の中ではぜんぜん同じじゃなくて、なんだかすごく嬉しくて、それがちょっと恥ずかしかった。
並んで歩きながら、私は傘を彼女の方に傾けた。
彼女がちらりとこちらを見る。
「佐倉さん、濡れてる」
「ちょっとだけ」
そう答えながら、なんとなく前を向いた。
少しの沈黙があって、ふいに彼女が言った。
「ねえ、今度さ」
「うん」
「雨じゃないときも、一緒に帰っていい?」
私の傘を持つ手が、一瞬止まった。
雨音がざあっと大きくなって、それから少し静かになった。世界が呼吸をしたみたいに。
「……いいよ」
答えた声が、自分でも思ったより小さかった。
彼女は何も言わなかった。ただ、少しだけ歩く速度を落として、私のペースに合わせてきた。
その距離が、傘の中にいるのに、さっきよりもずっと近くなった気がした。
家に帰って、濡れた右肩をタオルで拭きながら、私は気づいた。
水瀬莉子のこと、好きかもしれない。
気づいてしまったら、急に心臓がうるさくなって、タオルを顔に押し当てた。
明日は晴れの予報だ。
晴れでも一緒に帰っていいって、さっき私は言った。
明日、彼女はちゃんと覚えているだろうか。
覚えていてくれたら、どんな顔をして隣を歩けばいいんだろう。
答えのないことを考えながら、窓の外の雨音を聞いていた。

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