前世の記憶が戻ったのは、十歳の誕生日の朝だった。
ケーキのろうそくを吹き消そうとした瞬間、頭の中に膨大な情報が流れ込んできて、私はそのまま気を失った。
目が覚めたとき、侍女のマリーが青ざめた顔でこちらを覗き込んでいた。
「お嬢様、大丈夫でございますか? 急に倒れられたので……」
大丈夫ではない。全然大丈夫ではない。
私はラーシェル・フォン・ルヴィエラン。公爵家の一人娘。そして前世の記憶によれば、乙女ゲーム『薔薇色の誓約』のれっきとした悪役令嬢である。
ゲームのラストでは、主人公のマリナに婚約者を奪われたことに逆上して彼女を傷つけようとし、王太子殿下に断罪される。貴族の籍を剥奪され、辺境の修道院に送られるという、救いのかけらもない結末だ。
私はしばらく天蓋付きのベッドを見つめ、深く息を吐いた。
——つまり、このままだと終わる。
だが待ってほしい。よく考えれば、私にはまだ八年もある。断罪イベントは十八歳の社交界デビューの夜だ。八年あれば何だってできる。
もう一度ため息をついてから、私は上半身を起こした。
——よし。
わたくしが悪役をやるなら、せめて最高にかわいく悪役をやる。
それが無理なら、そもそも悪役にならなければいい。
完璧な計画だった。少なくとも、十歳の私にはそう思えた。
✦ ✦ ✦
問題は、八年後の私が計画をすっかり忘れていたことだ。
いや、正確には覚えていた。ただ、計画が途中から別の方向に走り出したのである。
十三歳のとき、武術を習い始めた。悪役令嬢が無力では話にならないと思ったからだ。ところがこれが楽しくて、気づけばどの令嬢よりも剣を使えるようになっていた。
十五歳のとき、商売の勉強を始めた。もし爵位を剥奪されても自立できるようにと考えたからだ。これも面白くて夢中になった。今では家の領地の一部の帳簿を任されている。
十七歳の秋、私はそれなりに充実した日々を送っていた。断罪されそうな気配もない。婚約者のアルフレッド殿下は相変わらず遠い存在で、月に一度の茶会で二十分ほど会うだけだ。
主人公のマリナとも、ゲームと違って険悪になっていない。彼女は確かに明るくて愛されキャラで、少し妬ましいけれど、私が先に手を出さなければ問題はないはずだ。
——そのはずだった。
✦ ✦ ✦
それが今日、狂った。
場所は王立学院の図書館。私が予約していた席に、マリナが先に座っていたのだ。
これだけなら大した話ではない。誤解を解いて別の席に移ればいい。問題は、彼女の隣にいた人物だった。
アルフレッド殿下。私の婚約者。
二人は並んで同じ本を読んでいた。殿下がページを指差し、マリナが笑う。その距離が、親密すぎた。
私は入口で三秒間固まった。
前世の記憶が警告音を鳴らす。——これ、知ってる。ゲームのシーンだ。ここで悪役令嬢が激昂して、全てが転がり始めるんだった。
でも今の私は十七歳で、八年間なりなりの訓練を積んだ。激昂するほど殿下に思い入れがあるかと問われると、正直よくわからない。月に二十分しか会わない相手だ。
私はひとつ深呼吸して、静かに歩み寄った。
「ごきげんよう、殿下。マリナさんも」
マリナが飛び上がるように立った。殿下は——少し意外そうな顔をした。たぶん、私が怒鳴り込んでくると思っていたのだろう。
「ラーシェル」
「その席、わたくしが予約しておりましたの。でも構いませんわ、ここは使っていてください」
私は棚から目当ての本を一冊抜き取り、くるりと背を向けた。
胸の中がどんな状態かは、自分でもよくわからなかった。怒っているわけではない。でも、何かが静かに揺れていた。砂の上に落とした一滴の水みたいに、じわりと染み込んでくる何かが。
✦ ✦ ✦
窓際の席で本を開いたものの、文字が頭に入ってこなかった。
十分ほどして、隣の椅子が引かれた。
「隣、よいか」
見上げると、アルフレッド殿下が立っていた。マリナの姿はない。
「……どうぞ」
殿下は静かに腰を下ろした。しばらく二人とも黙って、それぞれの本を読んでいた。いや、少なくとも私は読んでいるふりをしていた。
「怒っていないのか」
突然の問いに、私は顔を上げた。殿下の横顔は、いつもより少しだけ険が取れていた。
「怒る理由が?」
「……君が怒らないのは、珍しい」
「殿下は、わたくしが怒鳴り込んでくるとお思いでしたの?」
殿下は答えなかった。それが答えだった。
私は少し息を吐いた。
「わたくしは理性のある人間でございますので」
「……そうだな」
またしばらく沈黙が続いた。窓の外で、風が木の葉を揺らした。
次に殿下が口を開いたのは、十分後だった。
「ラーシェル。君は最近、剣を習っていると聞いた」
「ええ、まあ」
「なぜ」
私は一瞬考えた。正直に言うわけにはいかない。「将来断罪されたときに戦えるよう」なんて答えたら本当に断罪が加速する。
「護身のためですわ。公爵家の令嬢ともなれば、何があるかわかりません」
「それだけか」
「……楽しいから、というのもありますけれど」
答えてから少し恥ずかしくなった。貴族の令嬢が「剣が楽しい」などと言うのは品がないかもしれない。
でも殿下は笑わなかった。ただ、じっとこちらを見た。ゲームで何度も見た、瑠璃色の瞳で。
「今日、初めてそういう顔をした」
「……何です?」
「楽しそうな顔」
私は言葉に詰まった。
殿下はすでに視線を本に戻していて、続きを語る気はないらしい。その横顔を、私はしばらく盗み見た。
——八年間。同じ学院にいて、月に二十分。
この人のことを、何も知らなかった。
✦ ✦ ✦
帰り道、馬車の中でマリーが心配そうに声をかけてきた。
「お嬢様、何かございましたか? ずっとぼんやりされています」
「……ちょっと、考えごとをしていただけよ」
「殿下のことですか?」
侍女というのはどうしてこんなに鋭いのだろう。私は窓の外に視線を逃がした。秋の街が、夕日に染まって橙色に光っている。
「殿下って、笑うのね」
「……はい?」
「今日、笑ったの。ほんの少しだけど」
マリーはしばらく黙ってから、そっと微笑んだ。
「殿下は、お嬢様のことをずっと見ておられますよ」
「……見てるってどういう意味?」
「そのままの意味でございます」
答えになっていない。でも、なぜか胸の奥がじわりとした。さっきの、砂に染み込む水みたいな感覚がまた戻ってきた。
私はそれが何なのか、うまく名前をつけられないまま、夕暮れの街を眺め続けた。
断罪は、まだ一年先の話だ。
でも今日、何かが変わった気がした。何が変わったのかはまだわからない。ただ、図書館の窓際で、殿下の声が言った言葉が、頭の中で繰り返している。
——初めてそういう顔をした。
悪役令嬢は、どんな顔をして十七年を過ごしてきたのだろう。
そして殿下は、それをずっと見ていたのだろうか。

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