「エルフィーナ・ヴァルトシュタイン。お前の悪行は、すでに明らかである」
声が広間に響いた瞬間、私は少しだけ笑いそうになった。
こらえた。
今ここで笑えば、すべてが終わる。
大理石の柱が林立する王宮の謁見の間。白いドレスをまとった聖女ミレアが、その翡翠色の瞳に涙を浮かべて私を見ていた。隣に立つ王太子アルベルトは、正義の怒りを体現するように眉を寄せ、唇を引き結んでいる。
整った顔だ、と私は思う。彫刻みたいに。感情のない彫刻みたいに。
居並ぶ貴族たちが、私をじっと見ていた。断罪される悪役を見物する目で。誰一人として口を開かない。開く必要がないからだ。このあとの台本は、全員がわかっている。
聖女が泣く。 王子が怒る。 悪役令嬢が断罪される。
そして――幕が下りる。
問題は、この「幕」が本物だということを、私しか知らないという事実だった。
気づいたのは、三ヶ月前だ。
侍女のマリアが私の髪を梳きながら、ぽつりと言った言葉がきっかけだった。
「お嬢様は、最近ずいぶんお変わりになりましたね」
私は鏡の中の自分を見た。金髪、紫の瞳、高い鼻梁。どこからどう見ても「悪役令嬢」の顔だった。
そのとき、頭の中で何かがずれた。
パズルのピースが、音を立てて嵌まるように。
――これは、小説だ。
私が幼い頃に読んだ、異世界転生ものの乙女ゲーム小説。題名は「聖女の誓い」。主人公の聖女ミレアが異世界に転生し、悪役令嬢を断罪して王太子と結ばれる物語。そして悪役令嬢の名前は――エルフィーナ・ヴァルトシュタイン。
私の名前だった。
普通の転生者なら、そこで叫ぶだろう。どうすれば生き残れるかと奔走するだろう。
でも私は、三秒考えて、それをやめた。
理由は単純だ。
私はすでに、エルフィーナとして十七年間を生きていた。エルフィーナの記憶しか持っていない。小説の知識が頭に流れ込んできただけで、転生したわけではない。もともとここにいた。最初から、この物語の中に。
ならば私は何者なのか。
その問いの答えを、私はまだ持っていない。
「返答はないのか、エルフィーナ」
アルベルトの声で、意識が現在に戻る。
「……ございます」
私は静かに言った。膝をつかず、頭を下げず、まっすぐに王太子を見て。
貴族たちがざわめいた。跪くべき場面で、跪かない悪役令嬢。
ミレアが小さく息を呑む音が聞こえた。
「私は確かに、聖女様の使用人に厳しく接しました。魔法薬の研究のため、禁書庫への立ち入りを申請しました。聖女様の社交行事に、二度、欠席しました」
「それだけではない。ミレアへの嫌がらせは――」
「証拠を」
私は遮った。
静寂が落ちた。
アルベルトの眉が、わずかに動く。
「なんだと」
「証拠をお出しください、殿下。私がミレア様を直接傷つけた証拠を。私の命令で誰かを害した記録を。感情的な証言ではなく、事実を」
ミレアの顔が青くなっていくのが見えた。可哀想に、と思う。あなたは悪くない。あなたはただ、この物語の主人公として生まれてきただけだ。
でも私も、悪役として死ぬつもりはない。
なぜなら私には、この三ヶ月間でわかったことがあったから。
この世界の「おかしさ」が。
小説の中のエルフィーナは、嫉妬に狂って聖女を虐め続ける愚かな令嬢として描かれていた。でも私が実際に過ごした十七年の記憶の中に、そんな行動の理由が見当たらない。私はただ、王家に有用な魔法使いとして育てられ、アルベルトとの婚約を押しつけられ、望んでもいない立場に据え置かれていた。
嫉妬?
そんな感情を持つ暇もなかった。
では、なぜ私は悪役になった?
この疑問が、すべての始まりだった。
「証拠、か」
アルベルトが低く繰り返す。「エルフィーナ。お前は今、何をしている?」
「事実を求めています」
「お前がミレアを害そうとしたことは――」
「殿下」
別の声が響いた。
私は目を見開いた。
広間の後方、扉の近く。そこに立っていたのは、宰相のガレン卿だった。七十に近い老人。白い顎鬚。しかしその目は、この場にいる誰よりも鋭かった。
「少々よろしいか」
ガレン卿は静かに言い、そしてアルベルトではなく、私を見た。
その目に、私は奇妙なものを感じた。
哀れみではない。謝罪でもない。
確認だ。
まるで私が何かを知っているかどうかを、確かめるような目。
私の胸に、冷たいものが走った。
後で考えれば、あれが最初の亀裂だった。
ガレン卿は、アルベルトに耳打ちした。私には聞こえない。でも王太子の顔が、みるみる変わっていくのが見えた。怒りが、困惑に。困惑が、何かもっと複雑な感情に。
「……今日の場は、いったん終いとする」
アルベルトが言った。
ざわめきが広間を満たした。断罪が中断される。そんなことが起きていいはずがない。聖女が「殿下?」と小声で呼ぶ。
でもアルベルトは、もう私を見ていなかった。
私は自室に戻された。軟禁状態だ。窓には魔法の鍵がかかり、侍女は二人に減らされた。マリアはいない。どこに連れて行かれたのか、誰も教えてくれない。
深夜、私は机に向かって本を開いた。
禁書庫から持ち出した一冊。こっそり隠していた、薄い記録書。書名は「王国史、補遺第七巻」。誰も読まないような資料だ。
でもそこに、私はある記述を見つけていた。
三百年前。
初代聖女がこの国に降臨した記録。
そして、その聖女に「断罪」された、最初の悪役令嬢の名前。
エルフィーナ・ヴァルトシュタイン。
私は頁を閉じた。
指先が、かすかに震えていた。
三百年前にも、同じ名前の「悪役令嬢」がいた。断罪され、記録から消えた。
それから百年ごとに、聖女が現れるたびに、記録の隅に「ヴァルトシュタイン家の令嬢」の名が刻まれていた。毎回、断罪される側として。毎回、同じ役割として。
これは偶然ではない。
この国は、三百年間、同じ「物語」を繰り返している。
聖女が来る。悪役が現れる。断罪が行われる。そして聖女は去り、また次の聖女が来るまでの百年が始まる。
まるで儀式のように。
まるで――誰かが、そう設計したかのように。
窓の外で、風が鳴った。
私は立ち上がり、暗い夜空を見上げた。
小説だと思っていた。私はこの世界を「作られた物語」だと認識して、だから冷静でいられると思っていた。
でも違う。
もしこれが物語だとしたら、作者は私が思っていた人間ではない。
そして、その「作者」の目的が何なのかを、私はまだ何一つ理解できていない。
扉が、静かにノックされた。
夜中の三時に。
私は振り返り、「入りなさい」と言った。
扉を開けたのは、ガレン卿だった。老人は一人で立っていた。護衛も、灯りも持たずに。
「よく眠れませんか」
老人は微笑んだ。皺だらけの、穏やかな笑みで。
「お前が禁書庫で何を調べていたか、知っていますよ、エルフィーナ様」
私は黙っていた。
「賢い子だ」と老人は言った。「三百年で、気づいたのはお前だけだ」
その言葉の意味を、私は一瞬で理解した。
そして理解したとき、背筋が凍った。
三百年で。
この老人は、三百年間を知っているということだ。
「ガレン卿」
私は静かに言った。「あなたは何者ですか」
老人は答えなかった。ただ、その翡翠色の瞳が――
ミレアと、まったく同じ色の瞳が――
静かに私を見つめていた。

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