別れて三週間が経った今も、僕はまだコンビニでプリンを買えないでいる。
べつにプリンが嫌いになったわけじゃない。ただ、あの子が好きだったから、なんとなく手が伸びなくなってしまった。そういう、どうしようもない小さな未練が、日常のあちこちに転がっているのが失恋というものらしい。
「田村くん、コピー用紙どこだっけ」
声をかけてきたのは隣の席の中島さんだ。
「あ、棚の下の段です」
「あ、ほんとだ。ありがと」
中島さんはちょっと笑ってから、棚のほうへ歩いていった。
僕は画面に視線を戻す。戻そうとして、できない。
中島綾、二十五歳。今月から営業二課に異動してきた、元カノだ。
付き合っていたのは一年と少し。別れたのは先月の末、桜がまだ散りきっていない頃だった。理由は、まあ、はっきり言ってしまえば僕の優柔不断だ。「どこ行きたい?」「なんでもいい」「何食べたい?」「なんでもいい」——そういうなんでもいいを積み重ねた結果、彼女の中の何かが静かに折れたんだと思う。
「田村くんってさ、」
別れる前日の夜、彼女はそう切り出した。
「なんか、一緒にいると、自分だけが何かを決めてるみたいで疲れた」
言い返せなかった。言い返す言葉が、なかった。
異動の辞令が出たと知ったのは、綾から別れを告げられた翌週だ。人事部の田口さんが「あ、田村くんの元いた部署から中島さん来るんだって、知ってる?」と無邪気に教えてくれたとき、僕はちょうどコーヒーを飲もうとしていて、盛大にむせた。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
全然大丈夫じゃなかった。
異動初日、綾は朝から普通だった。普通に挨拶して、普通に席に座って、普通にパソコンを立ち上げた。僕が三日かけて覚悟して準備してきた「元カノとの顔合わせ」は、「よろしくお願いします」の一言であっさり終わった。
普通にされるほうが、傷つくこともある。
こっちだけが意識してるみたいで、なんか負けた気がする。
「ねえ田村くん、この書類の数字、合ってるかな」
昼過ぎ、綾が自分のデスクから身を乗り出して書類を差し出してきた。距離が近い。近すぎる。付き合っていた頃より近いかもしれない、これは職場の距離感だからそういうもんだと思うけど、でも近い。
「……えっと」
「どうした?」
「いや、見ます」
受け取った書類に目を落とす。数字を追う。集計の一箇所に、ちいさなミスがある。
「ここ、一行ずれてます」
「あ! ほんとだ。ありがとう、助かった」
彼女はあっけらかんと笑った。
その笑い方を、僕は知っている。
失敗を引きずらない、さっぱりした笑い方。最初に好きになった笑い方だ。
問題が起きたのは、その週の木曜日だった。
残業で人が減ったオフィスで、僕は報告書の修正をしていた。綾もまだいた。隣で黙々とキーボードを叩いていた。
「……ねえ」
綾が口を開いたのは、時計が八時半を回った頃だった。
「なに」
「田村くん、なんか気まずそうだよね、私のこと」
直球だ。昔から、彼女はこういう人だった。溜めない、察してもらうのを待たない。そういうところが僕とは正反対で、だから惹かれたし、だからうまくいかなかった。
「……そりゃまあ」
「私は別に、普通にしてるけど」
「わかってる」
「じゃあ田村くんも普通にしてよ」
言うのは簡単だ、と思った。でも口には出さなかった。代わりにまた「なんでもいい」みたいな沈黙を返しそうで、それが嫌だった。
「……普通って、どうすればいいんですか」
自分でも驚くくらい、素直な言葉が出た。
綾がこっちを見た。少しだけ、目が丸くなった。
「なにそれ」
「いや、わかんなくて。普通の元カノと元カレの距離感って、どのくらいが正解なのか」
綾はしばらく黙った。それから、小さく吹き出した。笑い声をこらえるみたいな、くぐもった声で。
「……田村くん、それ聞けるようになったじゃん」
「え」
「前はそういうこと、絶対聞かなかったじゃない。なんでもないって言いながら考え込んで、そのまま抱えるタイプだったじゃん」
言い返せなかった。今度は、違う意味で。
綾は「まあ、徐々に」と言って、自分のモニターに視線を戻した。
「徐々に普通にすればいいんじゃないの。最初から完璧にできる人なんていないし」
「……そうですか」
「うん。私も、ちょっと気まずいし」
「え、」
「え、じゃないよ。私だって人間なんだけど」
そのとき初めて、彼女も少しだけ平静じゃないんだと気がついた。普通にしているように見えて、普通にしようとしていただけで、完全に普通でいられるわけじゃなかったんだ。
なんだ。
なんだ、そうか。
「明日、昼飯どこ行くんですか」
気がついたら、そう聞いていた。
綾がまたこっちを見た。
「……なにそれ、急に」
「いや、なんか、そういう普通の話から始めたほうがいいかと思って」
「まあ、そうだね」と綾は言った。「どこがいい?」
「どこでも」
「田村くん!」
「冗談です。一階のランチ、まだやってますかね」
綾は少しの間こっちを見ていて、それから小さく笑った。
「やってると思うよ」
翌日の十二時五分、僕たちは並んでエレベーターを待った。
隣に立つ距離が、昨日より少しだけ自然だった気がした。気のせいかもしれない。でも、そういう気のせいが積み重なって、人間関係というのは少しずつ変わっていくものなのかもしれない。
エレベーターが開く。
綾が先に乗る。僕が続く。
「何食べるか、決めてきた?」
「日替わりにしようかなって」
「私もそれにしよ」
扉が閉まる。
ランチの話をしながら、一階へ降りていく。
これが普通なのか、普通じゃないのか、まだよくわからない。ただ、コンビニのプリンのことを、今日は一度も思い出さなかった。
それだけは、確かだった。

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