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「お前を愛していた、だから殺した」


死体は、笑っていた。

俺がそれを確認したのは、午前三時を少し過ぎた頃だった。 薄暗いアパートの一室。畳の上に横たわる男を、俺はしばらく眺めていた。

笑っていた。

こんなふうに死んでいく人間が、笑うものなのか。

俺は膝をついて、その顔をもう少し近くで見た。 薄く開いた唇の端が、確かに上を向いていた。

「……バカみたいな顔してんな」

声に出したのは、泣かないためだったと思う。


俺の名前は、高嶋凌。二十八歳。職業は、今となってはもう言えない。

死んでいる男の名前は、真壁遥。二十七歳だった。 去年の秋に出会い、今年の夏の終わりに俺はこの男の部屋の鍵をもらった。

恋人、と呼んでいいのかどうかは、今でもわからない。 俺たちはそういう言葉を使わなかった。使う必要がなかった、というよりも、使ってしまったら何かが崩れる気がして、俺が逃げていた。

遥のほうは、たぶん、使いたかった。 でも一度も言わなかった。そういう男だった。


出会いは、組の仕事だった。

俺は当時、新宿の半グレ組織の末端にいた。カタギじゃない仕事を請け負い、金を稼ぎ、感情を削ぐことで生きていた。それが俺の日常だった。

真壁遥は、俺たちが資金洗浄に使っていた小さな書店の店員だった。 三坪もない古本屋で、文庫本を膝に乗せて読んでいる男。昼間に訪ねるたびに、いつも同じ場所で同じように本を読んでいた。

「いらっしゃいませ」

そう言うたびに、こちらを見ずに頁をめくる。

最初は腹が立った。俺たちが何者かも知らずに、呑気に本を読んでいやがる。

でも三度目に行ったとき、遥は顔を上げて言った。

「あなた、さっきからずっと同じ棚の前に立ってますよ。その本、面白くないでしょう」

図星だった。俺は背表紙すら読んでいなかった。

「じゃあ何がいい」

「何が好きですか」

「知らん」

遥は少し考えて、文庫を一冊抜き出した。 表紙も見ずに差し出して、また自分の本に目を落とした。

それが、始まりだった。


俺は本が嫌いだった。正確に言えば、活字というものが俺の人生に必要だと思ったことがなかった。

でも遥に渡された文庫を、なぜか読んだ。 二日かけて読み終えて、返しに行った。

「読んだのか」

遥は少し驚いた顔をした。

「読んだ。主人公がバカすぎた」

「バカだから好きなんですよ、俺は」

「お前は賢いのか」

「賢くはないです。でもあの人よりは、たぶん」

俺たちはそれから、時々話すようになった。

仕事の話はしなかった。俺が何者かを、遥は最初から知っていたと思う。でも一度も訊かなかった。知らないふりが上手かったのか、本当に気にしていなかったのか、今となってはわからない。

ただ、遥といるときだけ、俺は自分の輪郭が少しだけ戻ってくる感覚があった。

それを「好きだ」と呼ぶのが正しいのかは、今でも俺には判断できない。


狂い始めたのは、冬だった。

組の中で金の流れに異変が起きた。 内部に誰かが情報を流している、という話が出回り始め、俺に調査が命じられた。

一週間かけて洗い出した結果、一つの名前が浮かび上がった。

真壁遥。

あの書店は、洗浄資金の中継地点として機能していた。 遥はそれを知っていて、外部に流していた。 誰に。なんのために。

俺は遥の部屋に行き、直接訊いた。

遥は否定しなかった。

「知ってたんだな」

「はい」

「なんで」

遥はしばらく黙っていた。窓の外を見ていた。

「あなたを、そこから出したかったんです」

俺は言葉を失った。

「お前が警察に流したのか」

「違います。別の、俺の知っている人間に。その人は、あなたの組を潰そうとしている」

「俺も一緒に潰れる」

「それでも、あなたが死ぬよりはいいと思った」

あまりにも静かな声で、遥はそう言った。


俺は遥を殴った。

感情があったから殴ったのではない。 感情がありすぎて、どこにも置けなくなったから殴った。

遥は倒れて、でも泣かなかった。血が出て、床を汚して、それでも俺を見ていた。

「殺しますか」

「……」

「俺が死んだら、あなたは逃げられます。俺が死体になれば、情報源も消えます。あなたの組の人間はそう判断する」

俺は何も言えなかった。

遥は続けた。

「でも俺は、あなたに殺されてもいいと思ってます。ずっとそう思ってた。あなたが俺に会いに来るたびに、もしかして今日かなと思ってた」

「お前は頭がおかしい」

「そうですね」

遥は笑った。

さっきまで血を流していた唇の端を、少しだけ上げて笑った。


俺は遥を殺せなかった。

それが俺の判断ミスだった。プロとして、人間として、それが正しかったのかどうかは、今でも俺にはわからない。

ただ、組に帰り、情報源は始末した、と嘘をついた。 遥には、姿を消せと言った。この街から、俺の前から、消えろと言った。

「わかりました」

遥は従順に頷いた。

「一つだけ、聞いてもいいですか」

「何だ」

「あなたは、俺のことが好きでしたか」

俺は答えなかった。 答えたら、何かが崩れると思った。


それから三ヶ月が過ぎた。

遥は消えた。書店には別の人間が入り、遥の気配はどこにもなくなった。

俺は普通に仕事をして、普通に金を稼いで、普通に感情を削いで生きていた。

そして今夜、俺はこのアパートの一室で、畳の上に横たわる遥を見ている。

笑顔で死んでいる遥を。


部屋の中に、手紙があった。 テーブルの上に、重しを乗せて。

俺は拾い上げ、封を切った。

読み始めて、三行目で手が止まった。

「高嶋さん、俺がいなくなってから、誰かが俺の代わりに情報を流し続けます。俺はもうそれを止められない。でも、一つだけ伝えておきたかったことがあります」

俺は続きを読んだ。

「あなたが俺に初めて本を返しに来た日、俺はあなたのことをすでに知っていました。知っていて、それでも話しかけた。これは俺の選択です。後悔はしていません。ただ、あの日の答えだけ、聞きたかった」

俺は手紙を置いた。

畳の上で笑っている遥を、もう一度見た。

なあ。

お前が「好きでしたか」と訊いたとき、俺は何も言わなかった。

でもあの夜、俺は答えを持っていた。

ずっと、持っていた。

俺はゆっくりと立ち上がり、遥の隣に膝をついて、その冷えた耳元に口を近づけた。

「好きだったよ」

三ヶ月遅れた答えは、もう届かない。

届かないとわかっていて、俺は言った。

部屋の外で、サイレンの音が近づいてくる。


窓の外、夜明け前の空が、じわりと白くなり始めていた。

俺はまだそこにいた。

遥の横で。

サイレンが、もっと近くなった。

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