朝の台所には、トーストが焦げるにおいがしていた。
毎朝のことだ。僕が焼く分は必ず少し焦げる。ちょうどいい加減にしようと思っているのに、コーヒーを淹れながらぼんやりしているうちに、ダイニングのほうから「またか」という気配が漂ってくる。
「陽太、換気扇」
振り返ると、遼太が新聞を広げたまま顎で指示していた。僕たちは二十三歳で、いちおう社会人で、ひとり暮らしをするには家賃が高すぎる東京の端っこで、こうして一緒に住んでいる。双子だから、というよりは、お互いにそれ以外の選択肢を本気で考えたことがなかったからだと思う。
「わかってる」
換気扇のスイッチを押しながら、僕は皿に焦げたトーストを二枚のせた。自分の分と、遼太の分。
「バター多め」
「言われなくてもわかってる」
遼太はそれだけ言うと、また新聞に目を落とした。紙の新聞を読む二十三歳なんて、うちの会社にも一人もいない。遼太がなぜそうするかというと、「画面だと読んだ気がしない」らしい。そういうところだけやたらと年寄りみたいな弟だ、と僕はいつも思う。
座ってコーヒーを飲みながら、窓の外を見た。梅雨の前の、曇りがちな五月の朝だった。
会社まで三十分。今日は午後に企画のプレゼンがある。三ヶ月かけてまとめたやつだ。うまくいってほしいような、なんとなく怖いような、そういう気持ちが胸の奥でくるくると回っていた。
「遼太、今日仕事何時まで」
「わからん。終電にはなると思う」
「また?」
「繁忙期だから」
遼太は建築の設計事務所に勤めている。僕は広告代理店。同じ顔をして、ずいぶんちがう場所で働いている。
ちがうといえば、遼太の食べ方はいつも綺麗だ。トーストをかじっても、テーブルにパン屑が落ちない。僕はなぜかいつもこぼす。母親に昔から「陽太は食べ方が雑」と言われていた。同じ遺伝子のはずなのに、どこでそういう差がつくんだろうといつも不思議に思う。
プレゼンは、うまくいかなかった。
正確には、「まあまあ」だった。上司は「悪くない」と言い、クライアントは「前向きに検討します」と言い、会議室を出た瞬間に僕は三ヶ月という時間の重さを、じわりと肩で感じた。
悔しい、というほどでもない。でも、すっきりしない。
帰りに駅のホームで電車を待ちながら、スマホを取り出してから、かけるあてがないことに気づいた。友達に話すには少し地味なことだし、母親に話すと「そうなの、大変ね、ご飯ちゃんと食べてる?」という方向に話が流れる。
遼太に電話しようとして、終電まで仕事と言っていたのを思い出してやめた。
家に帰ると、電気が消えていた。遼太はまだ帰っていない。いつもなら「やった、一人の時間だ」と思うはずなのに、今夜はなんとなく広く感じた。2LDKの、そんなに広くないマンションが。
シャワーを浴びて、ソファに転がって、とくにおもしろくないバラエティを見ながらうつらうつらしていたら、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいま」
「おかえり」
遼太は革靴を脱ぎながら、ちらとこちらを見た。
「飯は?」
「食べてない」
「俺も。なんか作る」
深夜一時を回った台所で、遼太が卵をとく音がした。僕はソファから起き上がって、なんとなくそのそばに行き、流しに寄りかかって腕を組んだ。
「今日、プレゼンだったよな」
「うん」
「どうだった」
「まあまあ」
遼太は何も言わなかった。それがよかった。「まあまあか」とか、「次があるよ」とか、そういうことを一切言わなかった。ただフライパンに油を敷いて、卵を割り入れながら「塩多め?」と聞いた。
「ふつうで」
「はい」
それだけだった。二人分の目玉焼きができて、あとは冷蔵庫に残っていた昨日の白米を温めて、深夜に二人でしずかに食べた。
食べながら、僕はふと思った。
遼太は僕と同じ顔をしているけど、僕の考えていることを全部わかっているわけじゃない。わかっていないから、余計なことを言わない。そして、わかっていないのに、なんとなくそばにいる。
それが今夜は、妙にありがたかった。
週末、遼太が珍しく先に起きていた。
台所からコーヒーのにおいがして、目が覚めた。ソファに座ってスケッチブックを広げている遼太の横顔は、集中しているときだけ少し別人みたいに見える。同じ顔なのに。
「なに描いてんの」
「設計。趣味で」
「仕事のやつじゃないの?」
「ちがう。自分で考えたいやつ」
そう言われて、僕は少し立ち止まった。遼太が仕事と別に、自分のために何かを描いていること、知らなかった。三年同じ家に住んでいるのに。
「見てもいい」
「まあ」
スケッチブックを覗くと、小さな図書館のようなものが描いてあった。角が丸くて、窓が多くて、中に吹き抜けがあって、光がたくさん入ってきそうな建物だった。
「かわいいな」
言ってから、「かわいい」という言葉が設計の感想として正しいのかどうかわからなくて、少し黙った。
「そう?」
遼太は照れているわけでもなく、ただそう返した。でもその「そう?」は、嫌じゃなさそうだった。
「こういうの、作りたいんだ?」
「まだわからん。でも描きたい」
わからないけど描きたい。
僕のプレゼンは、三ヶ月かけて「正しそうなもの」を積み上げた企画だった。遼太のそれは、正しいかどうかもわからない、ただ描きたいものだった。
どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、なんとなく、遼太のことを知らなかったんだなと思った。
「コーヒー、もう一杯もらっていい」
「自分で入れろ」
「冷たい」
「豆は棚の上」
言いながら、遼太はまたスケッチブックに目を落とした。窓から五月の光が差してきて、二人分の影がフローリングに伸びた。
同じ長さの、でも少しかたちのちがう、二つの影。
僕は棚から豆を取り出しながら、なんとなくもう少しだけ、ここに立っていたかった。
夜、布団に入りながら、今日あったことをぼんやりと思い返した。
プレゼンの「まあまあ」も、深夜の目玉焼きも、遼太のスケッチブックも、五月の朝の光も。
遼太と同じ顔をして、僕はずっと同じ場所にいるような気でいた。でも遼太は遼太で、知らない何かを持っていた。
それが少し、悔しいような、うれしいような。
明日、プレゼンのフィードバックが来る。直しがあるだろう。また積み上げて、また崩れるかもしれない。
でもなんとなく今夜は、それでもいいかという気がした。
理由はうまく言えない。ただ、遼太が「わからないけど描きたい」と言っていたことが、頭のどこかに残っていた。
廊下の向こう、遼太の部屋の電気はまだついていた。

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